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ピーター藤・和子

2016年3月15日火曜日

ノンクリスチャンの霊は死後どこに行くか

    「ノンクリスチャンの霊は死後どこに行くか」明確に理解していないキリスト信者が多い。これは、霊と魂と肉体をはっきりと分けて理解せずにそれぞれについての神の定めを思い違いしているからである。

    先ず、霊と魂を区別して考えることが大切である。その区別は医者も心理学も哲学者もできず、ただ神の言葉だけが分けることができる。「というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる」(ヘブル4章12節)とあるが、新改訳聖書では「霊と魂の分かれ目」としてより明確である。魂は知・情・意を司るところで所謂自我である。しかし、霊はキリストを受け入れるまでは死んだものであって、信じた時に初めて神にあって生きるようになる所である。「 さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって(エペソ2章1節) と書かれ、また「罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし―あなたがたの救われたのは、恵みによるのである―」(エペソ2章5節) と記されている。以上で分かるように霊は神ご自身だけが住まわれ占有される場所である。これは至聖所と聖所の違いを学ぶとよく理解できる。

    肉体は土から作られそこに魂が据えられ、更に命の息(霊)が吹き込まれて生ける者となった(創世記2章7節)。しかし、神に似せて人は霊・魂・体を持つ統合体として創造されたが、悪魔は人に罪を犯させたことによりその統一体を破壊した。人は死ぬ存在となった。そこで神は永遠の救いの計画を立てられた。御子の全存在を通して罪の贖いを完成なされたのだ。御子の体は生贄として屠られ血を流された。御子の魂は私達罪人が死後行くべきゲヘナに行かれ苦しまれた。レビ記16章のアザゼルの山羊がそれを教えている。キリストの霊は屠られたご自身の流された血を天の至聖所に携え真理の完全な贖いを完成されたのである。「かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。」(ヘブル9章12節)であるから、信者はその霊に義認という救いを、魂には聖化という救いを、肉体には栄化という救いを与えられる。それはキリストを信じ救われた過去、キリストの復活の命を受け続け信じ続けて生きている現在の救い、死後軽挙の時に栄光の体に変えられる未来の救いと分けて理解することもできる。しかし、キリストを受け入れることなくして死んだ人は救いがない。あるのは悪魔のために備えられた滅びと永遠の死のみである。やがて白いみ座の裁きの時に海も死も黄泉もその中にいる死人が出されて命の書に記されていない者は行いに応じて裁かれるとあるから、本来の人の中心である自我即ち魂と肉体が裁きのために復活させられ永遠の死に向うと聖書は記している。(黙示録20章13〜15節)。

    聖書は 人の死について「ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る」(伝道の書12章7節)と述べている。信者かそうでないかを区別していない。従って不信者の霊も神の元に帰るのである。つまりキリストを受け入れず救いを得なかった人の霊・魂・体は悪魔が破壊した分裂状態になってしまうのである。即ち、霊は神の元へ、魂はゲヘナに行き次に第二の死である永遠の滅びへ、体は土に帰るが白いみ座の裁きの時に復活して裁きを受け第二の死へ入ると。であるから、キリストの救いを不信者に伝えることは信者の急務であり、宣教は重大な使命である。

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