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ピーター藤・和子

2016年3月14日月曜日

セカンドチャンスへの反論

セカンドチャンスへの反論

未信者の死後の救い(セカンドチャンス)についての久保有政師氏の執筆「死後のセカンド・チャンスは伝道の妨げではない。それはまた聖書の教えである」に対しての意見。

1、「死んだ未信者は今陰府(よみ、ハデス)にいるのであって地獄にいるのではない。陰府と地獄は全く別の世界である。その違いは留置場と刑務所の違いに似ている。裁判の前に入れられるのが留置場刑の確定後に入れられるのが刑務所である。」という点において黙示録20章14節、マタイ25章41節を挙げて説かれているが同意する。
 
2、「院府が慰めの場所と苦しみの場所の2つに分かれていた。神を信じる旧約の聖徒たちは死後天国ではなく慰めの陰府に行った。しかし、主・キリストが十字架の購いを成し遂げて天に帰られた時陰府の慰めの場所にいた聖徒たちを天国に引き連れて行かれた。」という点においてエペソ4章8節を論拠として掲げておられるがその通り同意する。

3、キリストの陰府下りの意味について第一ペテロ3章18節~4章6節から未信者として死んだ魂、陰府の苦しみの場所にいる人々に対して福音宣教するためとするのは同意できない。
その理由は次の通りである。
 第一に主・キリストが陰府の苦しみの場所に行かれたのは主の魂であり、アザゼルの山羊(スケープ・ゴート)としてあくまでも我々の罪と呪をその身に負われて身替わりの故である。レビ記16章5節~22節は人々の罪の購いのために2頭の山羊と大祭司が3つの役割をもっていることを述べている。これはキリスト御自身がその全存在をもって全時代の全人類の罪の購いをなされた事を予表しているのである。罪のためのいけにえ
として殺される山羊は全時代の全人類の罪のいけにえとして殺されたキリストの体を表し、民のすべての咎と罪を背負わされ不毛の地へ追いやられるアザゼルの山羊は全時代の全人類の罪を背負い陰府の苦しみに行かれたキリストの魂を(詩編103:12)、いけにえとして殺された山羊の血を携えて至聖所に入り購いの儀式を行う大祭司は真の大祭司であり御自分の血を携えて天にある真の至聖所に入りただ一度完全な購いを成し遂げられたキリストの霊を表している(ヘブル9章11~12節)。主の魂は陰府で神の怒りと裁きを受けられたのである(詩編88編)。

 第二に「その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです」(第一ペテロ3章19~20節)。これは逃れの町の予表である。民枢記35章25ー28節は「会衆は、その殺人者を、血の復讐をする者の手から救い出し、会衆は彼を、逃げ込んだそののがれの町に返してやらなければならない。彼は、聖なる油をそそがれた大祭司が死ぬまで、そこにいなければならない。もし、その殺人者が、自分が逃げ込んだのがれの町の境界から出て行き、血の復讐をする者が、そののがれの町の境界の外で彼を見つけて、その殺人者を殺しても、彼には血を流した罪はない。その者は、大祭司が死ぬまでは、そののがれの町に住んでいなければならないからである。大祭司の死後には、その殺人者は、自分の所有地に帰る
ことができる」とある。逃れの町に逃げた人々のように罪人だが神を仰いだ人であった。ノアの洪水の時も同じことが言えよう。ノアはおそらく神の託宣を自分の周囲に住んでいた人々に伝えたことであろう。「主がこの地を洪水を持って裁かれるから悔い改めて私と一緒にこの箱舟に乗ろう」と。しかし人々はノアをばかにし、その主からの託宣を信ぜず、受け入れなかった。しかし、主家語られた通り大雨が降り、洪水が起こり、溺れそうになったり、自分達の身に死の恐れを感じるようになると、彼等はノアの語った主の託宣を思い起こし後悔し主に叫んだことであろう。「ノアの信じている神、主よ。赦してください。あなたの僕ノアをばかにしあなたの託宣を信ぜず、自分の生き方を悔い改めもせず、私たちはこの洪水の中で溺れ死のうとしています。でも今わたしは自らを悔います。どうかこの罪人を覚えてください。哀れんでください。」などと主に叫びながら多くの人々が死んでいったであろう。「主の御名を呼び求める者は、誰でも救われる(ローマ10章13節)のであるから彼等の体は罪のために死んだが魂は陰府の慰めの場所に行ったのである。さて、逃れの町から出れるのは大祭司が死んだときであった。それが完成したということを3日間、キリストの霊が宣べ伝えるために陰府の慰めの場所に行かれたのである。やがてキリストの霊はハデスで死を味わっているキリストの魂を救うために駆けつけそれが一つになり、やがては敵の軍勢に襲いかかり滅ぼし(詩編18編)、死と陰府の鍵を奪い取られその力を打ち破られたのである。キリストは旧約の聖徒たちから主・キリストが十字架にかけられた時に一緒に十字架刑により処刑されたが主を信じた犯罪人の一人までを引き連れて天に凱旋なされたのである。かくして陰府のパラダイスと呼ばれる慰めの所はもはや誰もいなくなったのである。キリストの魂が陰府にいた魂に良きおとずれを伝え天国に連れていったのではないのである。
 
4、久保氏はキリストを信じないで死後陰府に行った人が御座にいます方と小羊に讃美と礼拝を捧げると黙示録5章13節にあるから陰府にいる魂が義認の恵みを受けるセカンド・チャンスがあると言われるがそれは以下の理由で当たらないと理解する。
 なお、マタイ7章13節は主が生きている人々に対して語られているのであるが、これをもって死んだ人々が救われることもあるとの論拠にするのは当たらない。
 第一に全ての被造物は創造主なる主を讃美するべきものであることを詩編の記者は聖霊によって語っている(詩編149篇)。同時に聖書は「死人は主をほめたたえることがない。沈黙へ下る者もそうだ」(詩編115篇17節)と語っている。仮に陰府にいる魂が主を誉め讃えることがあるからと言ってそれをセカンドチャンスが陰府にいる者にもあるとするのは早計である。
 第二にルカ16章19節から31節は主が喩えとして話されたとは書いていないので実際の話をされたのだと考える。すると、主・キリストの購いがなされる前、つまり主が十字架にかけられる前であったので金持ちは陰府の苦しみの場所に行き、ラザロは陰府の慰めの場所に行ったのである。金持ちはアブラハムに何と訴えているだろうか。何が彼の願いであっただろうか。それは『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送
ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。」「父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。」つまり「何とかしてこのような苦しみの所に家族や自分の兄弟たちが来ることのないようにしてください。死者の中からラザロが遣わされて言い聞かせたら悔い改めるに違いない
でしょうから」というものであった。金持ちは後悔はしていたが悔い改めのチャンスがあるとは言っていない。もしチャンスがあるなら陰府にいるすべての魂はその苦しみの場所から心から逃れたいと望んでいるのであるから天国に行くチャンスを必ず捕らえるに違いない。しかし前述の聖句は、悔い改める機会が生きている時にある事を明言しているのである。

5、久保氏は「死後に救いの機会があると説くことは、福音伝道にとって障害だ。人々は死後に改心すればいい、と考えてしまうに違いない」という立場に対して、死後に関する正しい理解を説けば生きている内に改心すべきことが人々の前により鮮明になり伝道上不都合とはならないという。けれどもキリスト教に触れながらクリスチャンにならなかった日本人が陰府にいる先祖を救い出す道はないと聞いてクリスチャンにならなかっ
たという記述があったからと言って死後に救われる機会があると言うのは以下の理由により当たらない。
 キリストの贖いである義認という救いは人の思惑や思考により定められたものではなく神御自身が神の権威と秩序により定められているものである。この救いはキリストを信じることであるが、それは御子キリストの血による新しい(贈与)契約書に印を押していただくことである(ルカ22章20節、第一コリント11章25節、ヘブル9章15節)。そしてこの救いは人の生き方に左右されない(酬いとは別のものである)からい
つまでも失うことはない御子にあって与えられる永遠の贈物である。加えて誰も(悪魔も悪霊も本人も含まれる)父と御子の手から救われた者を奪うことはできないのである(ヨハネ10章28ー29節)。ヨハネ伝10章28節の原文は二重の否定の言葉をもって断じて決して滅びることはない、しかも永遠にまでもという言葉が加えられているのである。更に「主の御名を呼び求める者は、誰でも救われる(ローマ10章13節)」
とある。かつてベトナム戦争の激戦地である従軍牧師が多くの死に瀕している兵士に極めて簡潔な福音を語りキリストを受け入れる様促したと言う。「イエス・キリストをあなたの救い主として信じなさい。そうしたら天国にいけるよ」と。そんな僅かの時間にでもキリストを信じた者は最後の息が終わった時天使が彼を連れて昇っていくのを、信じなかった者は黒い霊がその魂を連れて下に降りていくのを見たと語っている。そんな死ぬ瞬間とでも言えるような時にでも主を信じる者は義とされ天国にいけるのである。世界で20億とも言われるクリスチャンによって今や限りなく多くの人々が福音に接しているのである。人生に一度や二度は聖書の言葉や主・イエスの十字架の話を聞いたと言えるように先に救われた者たちは様々な方法で伝道や証しをしているのである。しかも、たとい魂を悪魔に売り渡してしまったり、罪の奴隷となってしまったり、自殺をしたり
、全く聖書も読まず祈りもせず、教会にも行かず敗北的なクリスチャン生活を送ったとしてもそのキリストにあって頂いた永遠の命は決っして失うことはなく天国に行けるのである。ただ酬いは別のことである。聖書はキリストくを信じた者すべてが必ず天国に行くことを約束しているのである。そんなにまでも手厚く救いを憐れみ深い主が備えておられるのにそれを受け取らなかった場合にまで、なお陰府でも救われるチャンスがある
と言うのは賛成できない。
 
 


ミッション・あどない・いるえ 代表伝道者 ピーター藤 正信 
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