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ピーター藤・和子

2016年3月14日月曜日

思違い

「信仰を持っていると自認していても、その行いが伴っていなければ、救いに預かれるかどうかははなはだ疑問です。信仰には必ず行為によって第三者に証明されるものだからです。礼拝をささげるわけでもなく、聖書の教えに忠実に歩むわけでもなく、ただ「イエスさまを信じています」と言うだけではいけません。」「昔洗礼を受けた記憶はありますが、今は全く関係のない人に信仰による救いがあるかどうかは私は疑問です。」と私のセカンド・チャンスへの反論に対して菅原亘先生から上のようなコメントをいただきました。

 多くの方々がそのように思い、また「私は本当に救われているのだろうか」、「天国に行けるのだろうか」と不安を持っておられます。それは「聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている(マタイによる福音書22章 29節)のです。

 思い違いは、神が与えられた救いをどこで誰が保っているかについてです。聖書は明確に人は霊を持つものに造られ(創世記 02章 07節、伝道の書12章 07節)、キリストを信じた時霊は神にあって生きるようになり(エペソ人への手紙 02章 05節)、そこにキリストの御霊が住んでくださるようになる(ガラテヤの信徒への手紙 02章 20節、ヨハネの黙示録/ 03章 20節)と教えています。霊は本来人のものでなく神ご自身の領域です。モーセの幕屋の至聖所を学べば分かります。ですから「その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。 」(ヨハネの手紙一5章11節)と記されています。救いと永遠の命はキリストを信じた者の霊の中でキリストにあって保たれているのです。私たちの罪や失敗や信仰生活の如何に関わらずです。魂は人間本来の場所です、ですからいくら「聖い信仰生活を全うするぞ」という強い意志があっても、自分や他人の思いや言葉や振る舞いにより信仰を失い、信仰を捨ててしまう場合もありうるのです。そういうわけですから聖書は次のように記しています。

「人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。 」
   (ガラテヤ2章16節)

「しかし、恵みによるのであれば、もはや行いによるのではない。そうでないと、恵みはもはや恵みでなくなるからである。」(ローマ人への手紙11章 06節)

「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。 」
   (エペソ人への手紙02章 08節、9節)

行いによるのではなく、ただ信仰によって義認・救いが与えられると語っているのです。キリストが受けられた7重の苦しみにより、また私たちが行くべきゲヘナに主が行ってくださった故に与えられた恩寵の救いの御業が人の不完全な行いによりその有効性が左右されることはあり得ないのです(ヘブル人への手紙 13章 05節)。

 また別の思い違いは、義認と聖化を混同しているのです。聖化は魂に対するもので、義認は霊において受けたものです。つまり義認はキリストを信じた時完成したのです。聖化は現在形で死ぬまでキリストの姿に向かって成長していくものです。日々自分に死にキリストだけを見続けてキリストの言葉に従い続けていくものです。この聖化は救いとは別です。それは報いと関係があります。

 救いと報いも違います。地上で主に全く従い主の御心に生き、主の業を行い通した人には天においてその報いがあります。しかし、木・草。わらで築くような人生を生きた人にはやがて火でその仕業が試されすべてが焼け落ちて報いはないかも知れません。しかし、キリストにある永遠の救いの土台は残るのです(第一コリント3章10〜15節)。

  私は今までに多く「魂と霊の区別」「永遠の救いの契約」についてお分かちしてきました。それにより、「今やっと、どこで救いを持っているのかはっきり分かりました」と言われる方が少なからずおられます。

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