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ピーター藤・和子

2016年3月15日火曜日

三つの思い違い

題     目  :  三つの思い違い
テキスト : マタイ22:29
「イエスは答えて言われた、「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。」

起:
  「信仰を持っているたと言っても自殺したら地獄に行くのか?」、「申告告白して洗礼を受けたが信仰を捨ててしまった人は天国に行けないのか?」、などという信仰者の難問に牧師はどう答えるべきか?神の言葉である聖書は何と定めているか。聖書を読み違いしたり、様々な思い違いをすることがある。その結果、多くの方々が「私は本当に救われているのだろうか」、「天国に行けるのだろうか」と不安をもたらすことになる。

    「思い違い」を辞書で調べると、うっかり間違えて思い込むことは勘違いで、誤った解釈をして心得違いしていることが思い違いと言われる。勘違いはより単純なもの影響が軽度なものを言い、思違いはより質の悪い影響が大きいものを言うようだ。思い違いの方が勘違いより重度ということになる。端的に言うと教義や教理について、信徒のレベルでは勘違いといえるが、教師や牧師や説教者のレベルでは思い違いとなるのだ。

承:
     聖書は霊と魂と体の救いを明確に分けて定めている。霊に与えられる救いは義認であり、魂に与えられる救いは聖化であり、体に与えられる救いは栄化である。自制で言うと霊はキリストを信じてキリストにある永遠の命を受けた過去のしかし天に名が記された救い、魂には復活のキリストの命に日々満たされキリストの霊に満たされ続け従い続ける現在、そして死んで体は土に戻ってもやがてキリストの軽挙の時に栄光の体を頂くという将来のものだ。モーセの幕屋の聖所の中にあるパンの備えの台には12のパンがあった。それは神の教理はいかに分かち合われるべきかについて教えています。ごちゃまぜでなく正しく分けて教えられなければならないのだ。

転:
1.霊と魂の思い違い
     神が与えられた救いをどこで誰が保っているかについの思い違い

   思い違いは、神が与えられた救いをどこで誰が保っているかについてである。聖書は明確に人は霊を持つものに造られ(創世記 02章 07節、伝道の書12章 07節)、キリストを信じた時霊は神にあって生きるようになり(エペソ人への手紙 02章 05節)、そこにキリストの御霊が住んでくださるようになる(ガラテヤの信徒への手紙 02章 20節、ヨハネの黙示録/ 03章 20節)と教えている。霊は本来人のものでなく神ご自身の領域である。モーセの幕屋の至聖所を学べば分かる。だから「その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。 」(ヨハネの手紙一5章11節)と記されている。救いと永遠の命はキリストを信じた者の霊の中でキリストにあって保たれているのだ。私たちの罪や失敗や信仰生活の如何に関わらずです。魂は人間本来の場所です、ですからいくら心(聖書では心を魂という)の中で「聖い信仰生活を全うするぞ」という強い意志があっても、自分や他人の思いや言葉や振る舞いにより信仰を失い、信仰を捨ててしまう場合もありうるのだ。そういうわけですから聖書は次のように記している。

「人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。 」
   (ガラテヤ2章16節)

「しかし、恵みによるのであれば、もはや行いによるのではない。そうでないと、恵みはもはや恵みでなくなるからである。」(ローマ人への手紙11章 06節)

「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。 」
   (エペソ人への手紙02章 08節、9節)

行いによるのではなく、ただ信仰によって義認・救いが与えられると語っている。キリストが受けられた7重の苦しみにより、また私たちが行くべきゲヘナに主が行ってくださった故に与えられた恩寵の救いの御業が人の不完全な行いによりその有効性が左右されることはあり得ない(ヘブル人への手紙 13章 05節)。

2.義認と聖化の思い違い

 また別の思い違いは、義認と聖化を混同している。聖化は魂に対するもので、義認は霊において受けたものだ。つまり義認はキリストを信じた時完成した。聖化は現在形で死ぬまでキリストの姿に向かって成長していくものである。日々自分に死にキリストだけを見続けてキリストの言葉に従い続けていくものだ。この聖化は救いとは別だ。義認は霊に受けるもので聖化は魂に受けるものだ。義認はただ一度だけ受けるものですが、聖化は毎日受け続けていくものだ。義認は過去のものだが、聖化は現在進行形のものである。義認は全く神の恵みによるが、聖化はあなたと私が自分自身の意志で受け取っていくものだ。言い換えると、義認は神ご自身が全てを完成してくださいましたが、聖化は私たち一人一人の神との共同作業です。至聖所は霊について教えるが、聖所は魂について教えている。
     丁度聖所で祭司たちが毎朝毎晩、香を炊き、夜には灯火をともし、朝には灯火を消して芯切り鋏などで燈心を整えたように、またいつも新鮮さを保つ乳香を備えの台にあるパンに塗り毎週取り替えそのパンを食したように、魂は毎日新鮮な神の言葉を食し、祈りと感謝と礼拝を捧げ、香の芳しい香りが聖所を満たしたように神の霊に満たされなければならないのだ。しかし、至聖所は贖いのために大祭司が一年に一度だけ入る所である。一年に一度とは文字通りの意味でなく、私たちにとっては一生に一度という意味である。ペテロの第一の手紙 2:9には「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。」とある。

3.救いと報いの思い違い

    救いと報いも違う。地上で主に全く従い主の御心に生き、主の業を行い通した人には天においてその報いがある。しかし、木・草。わらで築くような人生を生きた人にはやがて火でその仕業が試されすべてが焼け落ちて報いはないかも知れない。しかし、キリストにある永遠の救いの土台は残るのである。(第一コリント3章10〜15節)。

    キリストの贖いである義認という救いは人の思惑や思考により定められたものではなく神御自身が神の権威と秩序により定められているものである。この救いはキリストを信じることであるが、それは御子キリストの血による新しい(贈与)契約書に印を押していただくことである(ルカ22章20節、第一コリント11章25節、ヘブル9章15節)。そしてこの救いは人の生き方に左右されない(酬いとは別のものである)からいつまでも失うことはない御子にあって与えられる永遠の贈物である。加えて誰も(悪魔も悪霊も本人も含まれる)父と御子の手から救われた者を奪うことはできないのである(ヨハネ10章28ー29節)。ヨハネ伝10章28節の原文は二重の否定の言葉をもって断じて決して滅びることはない、しかも永遠にまでもという言葉が加えられているのである。更に「主の御名を呼び求める者は、誰でも救われる(ローマ10章13節)」とある。かつてベトナム戦争の激戦地である従軍牧師が多くの死に瀕している兵士に極めて簡潔な福音を語りキリストを受け入れる様促したと言う。「イエス・キリストをあなたの救い主として信じなさい。そうしたら天国にいけるよ」と。そんな僅かの時間にでもキリストを信じた者は最後の息が終わった時天使が彼を連れて昇っていくのを、信じなかった者は黒い霊がその魂を連れて下に降りていくのを見たと語っている。そんな死ぬ瞬間とでも言えるような時にでも主を信じる者は義とされ天国にいけるのである。世界で20億以上とも言われるクリスチャンによって今や限りなく多くの人々が福音に接しているのである。人生に一度や二度は聖書の言葉や主・イエスの十字架の話を聞いたと言えるように先に救われた者たちは様々な方法で伝道や証しをしているのである。しかも、たとい魂を悪魔に売り渡してしまったり、罪の奴隷となってしまったり、自殺をしたり、全く聖書も読まず祈りもせず、教会にも行かず敗北的なクリスチャン生活を送ったとしてもそのキリストにあって頂いた永遠の命は決っして失うことはなく天国に行けるのである。ただ酬いは別のことである。聖書はキリストくを信じた者すべてが必ず天国に行くことを約束しているのである。


1.霊・魂の違い、救いと報いの違い、義認と聖化の違いをよく整理しておこう。

2.思い違いしないために、啓示と理解を与えられる御霊の助けを求めながら、聖書全体をよく読もうではないか。

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