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ピーター藤・和子

2016年5月13日金曜日

Παντα δυνατα παρα τω θεω . (パンタ デュナタ パラ トオ セオウ) 神には何でもできないことはない。 神学校でギリシャ語を学んだ時この短文にメロディを付けて覚えた。家族にも覚えさせて里子も一緒に歌った。信仰が湧いてくる言葉である。

「7つの鍵の真理①」が刊行されます!


「7つの鍵の真理①」がミッションあどない・いるえから出版されます。

著者はグレン・ユーイン師とロバート・ユーイン師でピーター藤正信が翻訳と補講を行いました。


内容として目次を参考にしてください。
目   次
推薦など                                            P 1-11
目次                                                  P 12-14
前書き                                               P 15-20
著者について                                      P 21-40
緒論                                                  P 41-50   

序 章 初代教会の使徒と使徒の教え    P 51-81
  A:初代教会の使徒と使徒の教え     P 51-55
  B:ミルクの教えと義の教え     P 55-59
  C:ミルクの教え                          P 60-81
   1:キリストの教えの初歩           P 59-66
   2:死んだ行いの悔い改め           P 66-67
   3:神への信仰                          P 67-72
   4:種々の洗礼についての教え     P 72-75
   5:手を置く儀式                       P 75-77
   6:死者の復活                          P 78-78
   7:永遠の審判                          P 78-79
  ミルクの真理の図示                      P 80
  参考 イスラエル民族の歴史と   P 81
     旧約聖書に見る7つの真理

第1章 神聖なる定め(幕屋の真理)   P 82
  幕屋全体図                                 P 82
        幕屋総論            P 84-89
   A 青銅の祭壇                           P 90-96
     B 青銅の洗盤                             P 97-100
     C 幕屋                                      P 101-115
     D 備えのパンの台                       P 116-120      
     E 金の燭台                                P 121-148
    萼に見る22の満たし              P 127-141
     F 香の壇                                   P 149-154
     G 契約の箱                                P 155-161
  教会統治のための神の定め              P 162
        全体図
   a 教会の頭なるキリスト                P 163-164
   b 教会構成の3つの表現                 P 164-166 
   c 9つの油注がれた努め      P 166-171
   d 9つの油注がれた賜物                P 172-175
   e 9つの油注がれた恵み(実)       P 175-177
   御霊の実を結ぶために               P 178-182

第 2 章  安息の真理           P 183
 A 安息とは何か                              P 184-185
   B 霊魂体への安息         P 186-187
 C 魂が安息に入る7つの道               P 187-194
   D 安息を阻害する7つの要因            P 195-196
 E 神に安息をもたらす4つの事柄      P 197-203
 F 神の安息への確かな繋がり    P 204-206
   G 神の安息への4つの努め              P 206-215
 H 豊かに満ち満ちた安息                 P 215-220
 I 安息を結ぶ完全な帯である愛          P 220-222
 J キリストご自身が安息の門である   P 222-226
後書き                                        P 227-228



著者について
グレン・W・ユーイン
(1893~1979)
 1929年9月、神のしもべであるグレン・ユーインは、使徒行伝2章4節にある初代教会の証しのような聖霊の御業を体験したのです。こういう体験は、それまでに見たことも聞いたこともありませんでした。主がこの神聖な経験を与えられたことは、長老教会の長老としてのグレンにとっては実に全く新しいことだったのです。彼は突然一晩に、ひとつのヴィジョンと神のために多くの魂を獲得したいという強い願いが与えられました。1905年にテキサスには聖霊派の教会の働き人のグループは唯一つしかありませんでした。今日では殆どの町に少なくとも一つは聖霊派の教会が存在しています。他の計画やヴィジョンを持つ人々はこの設計図と青写真にない足場の上に教会を建て上げようとしているのです。
 グレン・ユーインが初めて聖霊派の教会の集会に出席したのは5歳の時でした。当時、長老教会の会員だったグレンの母親にオールド・メソジストのキャンプ・グラウンドに連れられて行った時でした。人々は年に一度、夏に10日間のキャンプに集まっていました。その後の数十年間、毎年テキサスのウエイコで「いやしの天幕」と呼ばれたこうしたキャンプ・グラウンドの中で、グレンは「新約教会の神の定め」が実際に息づくのを見てきたのでした。そのキャンプで彼は癒しと奇跡を目撃しました。その一つは、そのキャンプの創設者である叔父のバド・ロビンソンがスピードを出していた車にぶつけられ、医者から「いくつも骨折があり朝まで持たないだろう」と言われた時のことでした。その町の葬儀屋であったバドの友人がそれを聞いて慰めるため病院を訪れたのです。バドの家族に少しも出費がかからないように葬式の世話をすると話し出 しました。すると「誰の葬式ですか」とバドが問うので「あなたの葬式です」と言うと、バドは「死にそうなのは私ではありません」と答えたのです。神はバドを見捨てられませんでした。彼は生きようとし、そしてバドは果たして生き、主のためにそれからも長い間宣教の働きをしたのです。グレンは大人になってもバドの体験を決して忘れることはありませんでした。      
 1930年代アメリカの大恐慌が始まった頃、グレン・ユーインは全ての財産を失い、以前住んでいたウエイコに戻る決心をしました。職が全くと言っていいほどないことが判り4人の子供達と現金20ドルだけを持って、人生を一からやり直すために戻ったのでした。ロバート・ユーインはその家族の最年少の子供でした。グレンと妻は主が備えてくださる未だ見ていない職のためによく祈りました。ウエイコに着いてから、主はグレンにある食料品のチェーン店のオーナーのところへ行くように強く示されました。それまで、食料品店などで働いたことなどなかったのでしたが、グレンはオーナーを捜しその店の一つで仕事をさせてもらえないかと頼んだのです。幾つかの質問をした後で、そのオーナーは一週間以内に一つの店をオープンすると言いました。当時は商品の値段は販売棚に値札が貼ってあっただけで、現在のように商品一つ一つに印字されていませんでした。オーナーはグレンに「1週間店で働いてみて、全ての商品の値段をその間に覚えられたら店長にする」と言ったのです。家に戻っってから、主はグレンに一つ一つ商品の値段を教えられました。そして、彼は店長の地位に就きました。グレンはそのように、ただ主の導きにより頼んだのでした。
 グレンがオールド・メソジスト・キャンプ・グラウンドでかつて精力的に奉仕していた年配の何人かに出会ったのはその食料品店で働いていた時でした。彼らは「サンシャイン・ミッション」という町の中心街で伝道を始めていました。グレンは夜の伝道を手伝ってくれないかと誘われ、妻と一緒に3晩出かけることにしました。彼らは大きなドラムを持ち出して「パブリック・スクエアー」で短い野外礼拝をもちました。大きなドラムを叩き、群衆を集め、2曲ほど賛美し、祈りと短いメッセージの後、解散し、一人が一人を伝道していきました。
 やがて主は、グレンがDr.J.J.グライアーと礼拝を持つために戻るように導かれました。グライアーは長老派の老牧師で医療に見放されていましたが、その結核は見事に癒されたのです。グライアー師はヘブル13章8節の聖句「イエス・キリストは昨日も今日もいつまでも変わることがない」を示されました。彼が癒し主である神に全く依り頼み始めると、急激に回復しました。彼は長老教会に暫くとどまり、神の癒しのメッセージを始めました。多くの人が街からやって来ました。グライアーは人々に按手し信仰の祈りをし、主は人々を癒されたのです。しかし、その集会に対する反対が起きたのでグライアーは身を引き、ある古い校舎で集会を始めることにしました。これが「J.J.グライアー・ミッション」となり、後に「グライアー・メモリアル・チャーチ」の本拠地となり、その古い骨組みの建物が「グレイス・ゴスペル・チャーチ」の本拠地に引き継がれたのです。その都度新しい建物の企画もなされたのですが、主が「わたしの富はレンガにでなく、多くの魂に注ぎなさい」と言われたのでその古い建物は今も教会堂として使われているのです。
 グライアーは偉大な信仰の人で、決して献金を求めることはしませんでした。彼は教会の入り口の机の上に「主への献げもの」と書いた教会の形をした小さな献金箱を置きました。グライアー師の給料は日曜学校の献金だけでした。グレン・ユーインはグライアーから神への信仰を学んだのでした。それは「オールド・ホーリネス・メソジスト・キャンプ・グラウンド」にグレンが子どもの頃に置いてきたものを拾い上げるかのようでした。
 主がグライアーをみ元に召された後に、グレンは牧師の職へと押し出されました。教会員たちは年配の男女で構成されていて、彼らはグレン以上に教会での働きについてよく知っていることに気がつきました。そこで、グレンは使徒行伝2章4節の体験、すなわち主イエスが地上で宣教を開始する前に受けた「聖霊のバプテスマ」として知られている体験について説教をし始めたのです。会衆の様々な人々がこの素晴らしい体験をし始めたのですが、ある日曜の朝、長老教会から来ていた旧友たちは席を立ち、去って行ったのでした。グレンと家族はあたかも破滅と見える状況の中で、しかし密かな全きリバイバルの証人となっていくのです。夫婦と4人の子供達に3人の年配者が残っただけでした。
 殆どの信者が元の教会に戻って行き、僅かな群れしか残らなかったことは落担を与えたのですが、「オールドタイム・メソジスト・ホーリネス」の聖徒たちのヴィジョンはグレンから離れず、彼が全きヴィジョンを持つだけでなく、ヴィジョン自体がグレンを捉えていたのです。彼はやめることも戻っていくこともできませんでした。読者も決して悪魔に降参しないでください。
 主が神聖な預言の働きによってグレンたちを励まされたのはそれから少し後のことでした。一人の預言者によって、神が若い男性たちを訓練のために各方面から送り込まれてくると語られたのです。それから主は、彼らに教会の名前を「グライアー・メモリアル・チャーチ」から「グレイス・ゴスペル・チャーチ」に変え、啓示の祭壇をつくるようにと預言が与えられました。そこでグレンたちは「グレイス・ゴスペル・チャーチ」の前庭に一つの看板を作りました。先ず一番上に使徒パウロのように私たちの福音を表す「グレイス・ゴスペル」と書き、次にその下には「イエスは救う。イエスは癒す。イエスは聖霊と共に満たされる。イエスはすぐに来られる」と書きました。
 グレンは教会は礼拝の中で会衆を神のために訓練すべきだと考えたのですが、すぐに訓練は牧師である自分のためにこそあると知りました。グレンはこの初期の頃、何度となく教会堂の空いた席に向かって説教をしました。彼は以前は富を持っていましたが、訓練によって謙遜であり続けること、そして神が与えるビジョンを諦めないことを教えられたのです。そのようにしてグレンの中にある高慢を十字架に付けるため、神は彼を小さな教会の裏手に住むようにされました。それから、青年たちが来始め、訓練が始まり、主の働きが彼らと共に続けられていったのです。彼らの献金の仕方はグライアー牧師がかつて始めたのと同じでした。日曜日の礼拝毎の献金がグレンの一週間分の給料となりました。ある時には献金箱の中に僅か1ドルと5セントだけのこともありました。
   グレンは「テキサス・グレイス・カウンセラー」という名の教会新聞を刊行しました。30年間続きました。その間に並行して多くのトラクトが印刷されました。教会は1951年に年2回のホームカミング・カンファレンスを開始しました。数年後の1965年に主はグレンが子どもの頃参加していた「オールド・メソジスト・キャンプ・グラウンド」をこうしたホームカミング・カンファレンスの行事に使うために購入するように導かれました。キャンプ集会の食事や宿泊のすべてはいつも無料とされました。費用は毎回教会の予算を上回ったのですが自由献金がその全ての支払いに不十分であることは決してありませんでした。年2回のキャンプ集会はグレン亡き後もロバート・ユーインに引き継がれました。
 最大の試練の一つは、1953年5月11日ウエイコを襲った恐ろしい竜巻に関係します。118名が死亡し、5,500万ドルを超える財産が破壊されました。その時、神は3人の預言者を送りグレンたちに警告を与えました。その預言者の一人はロバート・ユーインでした。また、4人目の預言者が教会に対して3日間の断食と祈りを要請しました。神は彼らのうち誰一人怪我をすることも、持ち物が破壊されることもないと語られました。事実、竜巻は翌日教会の建物のそばまでやって来て辺りの木々を根こそぎ引き抜きましたが、建物には一つの傷痕も残しませんでした。周囲では幾名かの死者を出しましたが教会からは一名も出ませんでした。教会員の理髪師が竜巻が来ることを聞いた時セメントブロック作りの建物の片隅に立っていました。先ず屋根が飛び、それから床と同じ高さになるまでセメントブロックが飛んで行きました。その状況の中で彼は両手を高く挙げ、神を賛美しながら立っていたのでした。
 グレン・ユーインは1979年7月12日86歳で神のみ元に召されました。神が彼を通してなされた不思議の数々と多くの報告とは今も受け入れられ、「彼は死んだが今なお語る」ということを証言しています。二流の家に住み、二流の車に乗っていましたが、彼は数十万ドルを世界各地の働き人と宣教師たちに献げたのです。
 グレン・ユーインが語った神の福音と彼が生きた主の恵み、すなわち忍耐と素晴らしい奇跡、超自然的なしるしと神の力の不思議は、のちの使徒の成熟したミニストリーの見本となったのです。




ロバート・C・ユーイン
(1924~2001) 
 ロバート・ユーインは、1924年2月4日にテキサス州ウエイコの長老派の家系に生まれました。彼の父親はグレン・ユーインで神聖な定めと秩序の幻を神から受け、毎年ウエイコの古いメソジスト教会のキャンプ場で聖会を行っていたのです。彼はその後1929年の9月に聖霊のバプテスマを受けました。1943年、グレンは非常に小さな教会の牧師になったのですが時々空の信徒席に向かって説教をしていたのです。にも係わらず、彼は依然として神からの幻を持ち続け、聖霊のバプテスマと神の癒しについて説教し続けていました。ロバートが救いを受けたのは5歳の時で、聖霊に満たされたのは8歳でした。彼の年頃の子供たちは外で遊ぶ事が優先されていましたが、ロバートは多くの時間を 聖書物語を読んでいました。それ故、後には聖書そのものをよく読むようになったのです。
 幼い頃より青年期に至るまで、彼はどもりのために(どもりの人がそうであるような)多くの卑しめられた体験をしました。彼が18歳の時、神学大学の学部長が自習していた彼に強い口調でこう語りました。『もし、私が君なら説教者にはならないよ』と。するとロバートは、『ありがとうございます。私もどちらかというと説教者にはなれないと思います。しかし、人には不可能なことも神にはできるのです。神は道のないところにどんな進路も作る事ができます』と精一杯努力しても5分かかって答えたのです。
 多年に及び聖霊派の教会は使徒や預言者の職位を信じていませんでした。しかし、神はロバートにこの賜物が有効に働くことを明かされました。それで彼は2年以上に渡って、彼に神の恵みが与えられるまで祈りの中で求め続けました。すると時として驚くべきことが彼に起こりました。彼が預言する前は、どもって話せなかったのですが、聖霊なる神は彼に多く預言を与えられました。彼が預言を語り出すと素晴らしい安らぎと平穏が伴いどもることはなかったのです。
 主は彼に、神の働きの職位として使徒や預言者が教会の土台を据えることは今も変わらず必須であることを示されました。ロバートはこの真理を確かめるために誰か人を送ってくださるように神に願いました。このことは1946年に、聖公教会の司祭であり使徒職の働きに神に召されたアンダーソン・ジャルダンがグレン・ユーインの教会に訪れた時に確証されたのでした。神が使徒職を通してご自身の言葉を確認するために行なわれた多くのしるしの中で、聖霊がジャルダンを通して預言が語られました。『あなたの中に一人どもりの者がいる。彼にはなすべき働きがあるが、まず私は彼を癒さなければならない。もし、彼が前に進み出てひざまずき長老たちかに手を置いて祈ってもらうなら、私は今彼を癒す』と。ロバートは前に出て行き、その時以来全くどもらなくなりました。
 ジ ャルダン司祭は教会を建て上げるための神聖なる定めの幻を持っていました。彼の教えを介して、多くの変更がその地域教会で行われました。先ず、教会名はグレース・ゴスペル・チャーチ(恩寵福音教会)と変えられました。次に、イエスの救いと癒しと聖霊のバプテスマと再臨が説教され始めました。神はその地域教会を世界の多くの場所で新約教会の幻を広めるための模範・モデルとして用いました。その同じ年に、ロバートは預言者としての務めに預言を通して召されたのでした。神は彼に多くの予告的な預言をする道を通ることを許されました。それらの内幾つかは一見したところとても不可能な状況でしたが、預言が神から来る時には創造的な力を伴い、また必要があればその答えまでも作り出されていたのです。
 教会を通して神が送られた地域の人々と共に働いて数年ののち、主はアメリカ中西部の北、及びメキシコシティからカナダまでの地域での新しい使徒的ミニストリーへとロバートを召し出されました。それらの教会の幾つかは、献身者たちを育て世に送り出し、「ジュニア・アンテオケ」として神に仕えています。基礎的な働きのためには大きな叫びがまだまだあります。収穫には、神の家つまり、神の方法で建てられる地域教会が麦がだめになったり散らされてしまわないように嵐から守らなくてはならないのです。
 神が1947年から10年間に渡ってロバートに導かれた一つの働きは、子供たちと青年たちへの務めでした。ウエイコだけでなく、近隣から、彼らの宣教拠点の建物の街を超えて、数百名もの若者がキリストを受け入れたのです。そのことはロバートにとってより広い務めのための訓練となりました。
 1952年、聖霊がロバートに預言的な夢や幻そして数々の預言を与えられました。それは7年間で様々な教派の人々を訪れ、神のための残りの者を召し集めることでした。その人々を通して神は使徒的働きを生み出されました。ロバートは21の州とカナダに行き、教派のグループから他のグループへと乗り出し聖霊の大きな働きの証人となったのです。
  神はロバートに神の青写真にある教会をヨーロッパ中に建て上げるように重荷を与えられました。特に殆ど全ての元共産圏の国々にそのような美しい教会を育てようとされました。ロバートの使徒の務めは年々成長しました。同時に彼の命を脅かすような大きな対立と挑戦を何度も受けました。神はロバートに「グレイス・キャンプ・グラウンド」で新しい教会を始めるように導かれました。それを、さらに多くの州とまた世界各国、すなわちメキシコ、グァテマラ、カナダ、ギニア、スイス、オーストリア、ドイツ、フランス、スペイン、ハンガリー、ルーマニア、アイスランド、イスラエル、アルジェリア、ケニア、ロシア、ウクライナ、日本などへ広げ、いつも信仰と忍耐のうちに「神の新約教会のための神の定め」という勝利のメッセージを携えていくようにされたのです。
 ロバートの使徒の働きは、制限されることなくこれらの全ての国々を巡り、主・イエス・キリストの福音を伝え、「神の栄光の教会」を建て上げるための基礎的な務めを開拓していきました。それに加えることは神の言葉の啓示の務めでした。それは、グレンと共に始め続けられてきました。神の御言葉の真の意味を開き、初代教会がその土台とし、教義として持っていた真理を回復していくものでした。ロバートは真理の言葉を正しく分類する幾つかの鍵となる型を神から受け取ったのです。それはキリストの体の内にある境界線を打ち壊し、キリストの体が一つになるという神の願いに応えるものでした。それらの型等、ロバートは数百もの輪郭的な教えを書き留めました。それにより、使徒パウロが語ったキリストの計り知れない富を洞察することができるのです。
 話は少し戻りますが、主はグレンの務めの下で訓練されるために、あらゆる所からから多くの若 者を連れて来られ、多くの収穫をもたらすために宣教地に送り出されていきました。彼らは神の恩寵と新約教会の模範なる幻というメッセージを携えて行ったのです。グレンの下で訓練の務めを受けた人々のリストは非常に多いです。その中のほんの僅かな人々についてだけ触れることにします。フィリップ・スタンレーは20年以上日本に行き、それ以降は世界的な預言者になりました。レイ・ジーンのインドとパキスタンにおける宣教の働きは素晴らしく成功しました。ボビー・マルツはハイチとフィリピンで務めをしました。ウエイン・クロークはインドネシアと香港と台湾に行きました。アール・ケルンとダニエル・ブライマーはメキシコに行きました。22年間に渡ってこの地域教会はグレンとロバートの教えが公 開されたテキサス・グレース・カウンセラーという新聞を刊行しました。それは、教会に対する神の定めを明らかにするものでした。ロバートはグレンの見解を再考し、”新約の恵みカウンセラー”として記事や教えの刊行を再開しました。加えて、グレンの時代からの同じ古いメソジスト・ホーリネスのキャンプ場で年2回の聖会を始めました。その名前はグレース・ゴスペル・キャンプ場と変えました。グレン・ユーインは福音の説教をし恩寵の中で生活している模範的な成熟した使徒職として知られていました。彼が献身した人々を訓練し働き人として送り出すために持っていた忍耐と情熱に加えて、超自然的な神の力が彼の人生の中にあったからです。
 多年に渡ったその地域教会での共働の後で、神はロバートを米国とメキシコとカナダにおいて新しい働きを 起こすため使徒的な務めに召されました。それらの建て上げられた教会は初代教会時代のアンテオケ教会に見る雛形のように働き続けたのです。父グレン・ユーインから学んだように、宣教地に献身する人を育て上げ働き手として送り出しました。彼はいつも若者が収穫のために出ていける誠実な働き手になれるよう、またイエス・キリストにある神の完全な恩寵を証しするよう励ましていました。ロバートは決して彼の地域教会のために若者を取っておこうとしたことはありません。神は若者たちの祈りに答えられ、現在私たちは実際に見ている新約のタイプの教会が旧共産圏諸国を含むヨーロッパで建て上げられています。ベルリンの壁が崩壊する前、多年に渡りロバートは地下教会のキリスト信者達を訪問しました。聖書を届け、彼らに神にある歩みを教えたのです。ベルリンの壁が崩壊した後に、神は旧共産国以外にもヨーロッパ諸国や北アフリカにも扉を開け続けておられます。
 1996年に神は特別な方法で若者達に訪れロバートをして”キャンパス・フェロシップ”という刊行を導かれました。それは献身した若者に対する冊子です。その刊行は言わゆる”イエス革命”として知られている若者運動が始まる半年前に行われました。神はその刊行物を通して多くの大学生達の心を動かされました。この刊行は神の定めと7つの鍵の真理に関して神から与えられた多くの啓示を広めるための大切な方法でした。1979年、彼の父グレン・ユーインが神の元に召された後にロバートはキャンプ場での聖会を引き継ぎまし た。彼は多くの国々を旅行する傍ら、諸教会や牧師達のために務めをしました。彼の使徒的な務めは米国の多くの教会だけでなくカナダ、メキシコ、ヨーロッパでもアフリカ、アジアの諸教会でも認められました。
  2001年9月12日、ニューヨークのツインタワーが攻撃された翌日、主はロバート・ユーインをご自身の臨在の中に招き入れられました。その恐ろしい混乱の真っ只中に、ロバートは地上の家に住んでいたのと同じ調子で彼の天の家に帰って行きました。その魂は平安と安息の中で。彼は、いつも神の摂理に信頼し、しみやしわのない栄光の新約の教会であり、子羊の花嫁の一部であることを願い続けていました。彼の生涯はすべての道における見習うべき模範でした。彼はすべての事 柄に優先して神を愛しました。彼はまた人々を彼の魂を込めて愛しました。ロバートが多くの旅で出会った誰であろうとも、通りの子供や大人に偉大な情熱で主イエスを分かち合った彼のような魂を持っていた人物はいませんでした。彼は人々を愛し幾千もの方法でそれを示しました。彼にはどんな教派や文化の境界もなかったのです。
 この7つの鍵の真理は神の子供達に広く公開されて、見かけや矛盾に陥ることなく聖書を理解するためにロバートによって明らかにされた主要な模範からなっています。
「そこで兄弟たちよ。堅く立って、わたしたちの言葉や手紙で教えられた言伝えを、しっかりと守り続けなさい。」(Ⅱテモテ2章15節)
   実証済みの強固な土台によって教会を啓発するものです。
「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」(エペソ4章13節)
 私たちはあなた方がより多くを受け取りそれらを楽しむことができるように聖霊なる神が油注がれるように祈ります。誠実な心でそれを学んだ方々は世界中でその鍛錬を受けています。同時に、私たちはこれらの真理が他の所でそうであるように、あなた方の 信仰生活と諸教会にも継続的な霊的復興をもたらすように祈ります。どうか、私たちは継続していけますように。
 「それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」(1テサロニケ4章17節)。
 ロバート・ユーインの父であるグレン・ユーインの名前によって書かれた幾つかの文章がこの巻の中に含まれています。他の文章はすべてロバート・ユーインによって記されました。
 著者が親子二人である故、その紹介で重複している部分がありますが、あえてそのまま載せました。




 スイスの神学校で教鞭を執っているカナダ・トロントのハワード・キャッツ牧師は次のようにロバート・ユーイン師を紹介しています。

 「たといあなたがたに、キリストにある養育係が一万人あろうとも、父は多くあるはずがありません」(第一コリント4章15節)。
 ロバート・ユーインは私にとって教師以上の存在でした。彼を用いて主は内なる生活を研ぎすまされました。
 私はロバートに出会う前に17年間キリスト信者として生きていました。私は主に使えたいと願っていました。他方で私はユダヤ人であり、ユダヤ教に基づく律法主義にしっかり根付いていて、その結果最初ロバートに会った時に非常な用心深さをもたらしました(恵みと律法主義は油と水のようなものです)。ロバートは私の中で霊的戦いが始まっている事を認めました。ロバートは次に会った時までのまる一年間継続して私の為に祈ってくれました。その事によって、かつて主がロバートに教えられた事柄を聴く備えを私の心に成し遂げてくださいました。数時間ロバートは律法主義について聖書を通して詳しく説明してくれました。神の恵みにより、私の心に照らし出された多年に渡って築き上げてきた律法主義をその偉大な掲 示によって、注意深く粉々に粉砕することができました。そして、最初の聖書研究は発展して1日に10時間が6日間に及びました。その6日の間中、最初から最後まで、神の臨在を非常に強く感じました。私が以前は決して理解できなかった神の言葉を通してです。私はその6日間綿密にノートを取ったのですが、ロバートユーインは決して自分のノートを参照する必要はなく聖書から直接教えてくれました。それが私とロバートユーインとの関係の始まりでした。それからの8年間以上、私が彼をテキサスに訪問したり、彼が私をカナダに訪ねてくれたり、ロバートの何度かのヨーロッパ旅行に随伴したりしながら私のキリストにある歩みは一段と深くなっていきました。
 私にとって大きな衝撃だったのは、彼の教えがその一貫した主への献身として彼の全ての生活の中で実践されていたことでした。私は今までそれ程までにキリストに完全な献身的な人物に会った事がありません。神はロバートを用いて私の魂を研ぎ澄まされました。彼は実に使徒的な油注ぎと霊の父になる方法を持っていたのです。
          
                       ハワード・キャッツ
                       オープン・ドア・チャーチ
                       カナダ・オンタリオ・ロンドン



 7つの鍵の真理は神の言葉から横道にそらすものではなく、むしろその代わりに7つの聖書の重要な真理へと導くものです。その真理を適用することにより、私たちの教会や信徒のクリスチャン生活は祝福されました。それらの教えは、私たちが聖書を開き個人的な問題の良い解決を見つけるための助けと理解になり、素晴らしい経験をもたらしたのです。

                           ダニエル・モゼール
                           ベルン新約教会
                           スイス・ベルン




 
 私は1971年にロバート・ユーインに会う特権を得ました。そして、恵み深い神は彼と大変親しい関係を持つことを許されました。彼の生涯の最後の5年間、毎日のように私たちは並んで聖書を学びました。私は実にロバートの人に対する真実で犠牲的な愛が謙遜と従順といった点で見習うべきものであることを証言できます。これは私の個人的な意見ですが、このことの故に神はロバートに世界中に多くのドアを開かれたのだと思います。神は彼に神の言葉の深い意味を現実に理解するという豊かな恵みを与えられました。彼は多年に渡ってキリストの体が与えられていた教えの内、聖霊なる神から現実的・実際的な啓示を受けたのです。常に真理を追い求めていましたが、当然すべての理解が得られたわけではありませんでしたが、解釈の問題についての助けとなる鍵が与えられたのです。私は、7つの鍵の真理が、すべての先入観から離れて、継続的に開かれた私たちの霊的理解のために、神の言葉を正確に区別して学ぶ事ができるように、誠実な心で試されて受け取られていった事を本当に信じています。

                         エリエゼル・メンドーサ
                                   神の小羊教会
                         テキサス州ダラス




 私のキリスト信者になってからの始めの数年間、自分の救いについての確信のなさとそれは大変な苦闘をしていました。それはあたかも悪魔が確かな御言葉に対して疑念を生じさせたかのようにみえました。後にグレン・ユーインとロバート・ユーインはその事について考えを話してくれました。神は私を助け、聖書にある難しい部分を分かるようにしてくれました。その殆どは例外なく聖化についてであり、義認についてではありませんでした。それが現実となった時、私は自由になりました。私は以来ずっとその苦闘から解放されています。ロバートが意味じくも言った通りです。「義認と聖化は列車がその上を走る2本のレールのようなものです。あなたが両方を得たのでそこに安息があります」と。 私は全く同感です。

                        リチャード・タイソン
                        バージニア州ハンプトン





「7つの鍵」を中心に旧約と新約の全体の真理を霊的に解説しています。首尾一貫している解釈です。そう推薦を下さったのはルーマニアオーストリアハンガリーイタリアギリシャクレタ島ケニアインドフィリピン大韓民国米国宣教活動をなされた、高知ペンテコステ教会主任牧師の大川修平先生です。(京都大学及び同大学院修士課程英米文学科卒業。フルゴスペル神学大学院及びアジア教会成長神学院の教授及び講師を歴任、著書に『ペンテコステ神学』『聖書的リーダーシップと日本文化』『ユダヤ教の教え』『聖書解釈の原理』、訳書に『真理の解明』『旧約聖書の教え』『新約聖書の教え』がある)



 この刊行の働きはGrace New Testament Ministries Foundation, の所有とするものです。その使命は、新約の模範により、教会の回復を見るために意欲を持っていたロバート·ユーインの教えや著書等の刊行と配布が含まれています。この著書の販売により得られたすべての印税は、著者の持っていた使命を果たすために使われます。すべての聖書の引用は時に明示されない限り、欽定訳(KingJamesVersion)からなされます。使用許諾については、内容が記載されているタイトルと著者名が変えられてない限り、教団の事前の許可なしに簡単に引用できます。あるいは、この著書の一部の再現が認められます。他の言語で、この著書を出版するための権利は、Grace New Testament Ministries Foundationと契約する必要があります。
第2版:2000年 第3版:2006年
Copies printed:1000 ISBN 968-7756-18-7 
Ediciones Ariel ® Francisco G. Sada 2400 Col. María Luisa Monterrey, NL 64040 México 
www.edicionesariel.com 
Impreso en México Printed in Mexico


 日本における刊行は”ミッション・あどない・いるえ”がTestament Ministries Foundationから権限を得て翻訳・印刷・出版を行っています。邦訳に於いてはできるだけ活字を大きくし、聖書の引照は本文も掲げました。訳は特段の記載なき時は共同訳聖書と口語訳聖書を用いました。



翻訳者と著者ロバートの関わり
 私の教会にロバートは何回も来てくれました。その謙虚な仕える姿こそ真の使徒職と確信したのです。彼が主にあって分かち合ってくれた教えは深く多いのですが少しずつ自分のものとし、更に神の子供たちに分けていきたいものです。彼の生き方と共に。
 彼は一度も自分は使徒だと言ったことはありません。最初、私が彼の家に行くと聖書大学の多くの学生が集まっていました。ロバートは彼らに食事を与え聖書を分かち合っていました。それから初めて会って何も知らないはずの私に神の恵みをその学生達に分かち合ってくれと言うのです。私は当時本当にBaby Englishで自分でも何を言っているか判らなくなってしまうような状態でしたが、彼は私に任せて自室に行ってしまいました。駆け出しの牧師であった私を立て上げる事をその時からして貰った事を忘れる事ができません。
 彼は我が家に何度も泊まってくれました。5月のまだ肌寒い朝、私も妻もがボイラーのスイッチを入れ忘れていたので彼は水のシャワーを使いました。にもかかわらず、私達に一切責める事をせず愚痴も言わず、気持ちよいシャワーだったと言うのです。ここに彼の使徒としての偉大さを見たのです。食事の間、聖書の質問をしない限り彼は普通のミルクとピーナッツ・バターの大好きなテキサスのおじさんです。ところが、一言でも聖書の質問をするや否や、彼はナイフとフォークを使うのを止め、瞬時に聖書の世界に入り立て板に水のように1時間でも2時間でも語り出します。私の神学校の友人達と千葉での集会に行く車の中での事です。走り出してすぐ友人の一人がロバートに質問しました。するとその答えが3時間も続き、到着するまで聖書の真理を語り続けたのです。
 メキシコの彼の弟子の教会では礼拝の後、奇跡の賜物を持っている長老や癒しの賜物を持っている長老等が前に立ち、人々は必要と願いに応じてその長老の所に行ってミニストリーを受けていました。その教会では今までに7人の人が生き返り、その内の一人に私も会いました。 今まで「自分は使徒」という教職者に何人も会いました。預言を語ったり、大きな教会の牧師であったりはしたでしょうが、ロバートのような品性を備え、使徒の教えを持ち、しるしと不思議が伴うミニストリーを行っている神の人を見た事がありません。

  
ロバートとその使徒職チーム
 マルコーシュ・パブリケーションから出版されたピーター・ワグナー著「使徒的教会の到来」の73項にロバート・ユーインを中心としたグレイス長老会の記事が載っています。今日は教会の中にもサタンのもたらす混乱と惑わしに翻弄されるような時代です。今一度、ウエイコ・リバイバルでロバートが主から与えられた教えと真理を再度深く見直すべき時だと思う次第です。
 ロバートは自ら預言者達と共にチームとして彼がカバーしている教会や教役者のところに行き、長老などを選んだり分裂などの問題があると話を聞き、共に祈り、み言葉から助言し、預言をし、それは誠実に務めをしていました。彼の後継者も同じように行っています。
 ロバートの教えは非常に多く、まだ日本語に翻訳されていないものもあります。ロバート亡き後、彼の後継チームはロバート・ユーイン師の教えを日本のクリスチャンと教会リーダー、教職者の方々に紹介する恵みの特権をミッション・あどない・いるえが頂きました。翻訳をしながらではありますが徐々に皆様にご紹介して参ります。

                      ミッションあどない・いるえ

                      代表伝道者 ピーター 藤 正信


今回の初版は500冊限定でキリスト教書店には出さないで、直接販売を行います。

問い合わせや注文の申し込みは下記までお願いします。
ミッションあどない・いるえ
MissionJehovahJireh@yahoo.co.jp
携帯080ー6562ー1427

2016年3月15日火曜日

東京電力の広瀬社長は社員に向けて訓示し「福島の責任をこれからもしっかり果たしていくことが原点だ」と語った▼東電は福島第一原発の廃炉費用として1兆円を引き当て、将来更に1兆円必要になると見込む。既に個人や法人に支払った賠償金は約6兆円に上るが、今後7兆円以上に膨らむ見通しだ▼一度原発事故が起きると巨額な出費があると見聞きしながらも、日本の電力会社がこぞって一基4000~5000億円(火力発電所の3倍) もする原発をなぜ作るのか。理由はいくら高額な投資 になってもその全てかかった分だけ電気料金に上乗せできるからだ。しかも毎年国から5000億円もの補助金が出る。日本の電気料金は世界一高いと言われている。原発を作るれば作るほど電力会社は儲かる仕組みになっている▼確かに多くの原発を作れば関係者は大いに富を得るだろうが、予想されている巨大地震で大きな原発事故になり家族や本人や顧客達が被曝したり死んでしまったら元も子もないのではあるまいか。「人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか」(ルカによる福音書9:25)
孫娘の唯祝(いのり)1歳8ヶ月が退院した▼1週間の予定だったが、皆様のお祈りと神の助けにより3日早くなった。母親も体調回復した▼病院食もいつも完食し、親もその出される食事から今後の食事作りのヒントを多く得た。看護婦さんの扱いや同室内の他の泣く子や様々な音の中で鍛えられたくましくなってきたと母親が言う▼こんな幼児でも全てを益にしてくださる神は、なおのこと私達が出会う全ての困難をも成長に変えてくださるに違いない▼「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」(詩篇 119:71)
4にまつわる神の恵み

4は日本では死に繋がると忌み嫌われる数字であるが、聖書の世界では神の恵みの十全性を表す▼神の恵みはイエス・キリストを賜った事に表されている。あなたと私に対する神の愛は、全てを受け入れ、全てを信じ、全てを期待し、全てを我慢してくださる神の愛アガペの四つの本質に現れている(第一コリント13章7節)▼モーセの幕屋の入り口に青銅の祭壇は正方形であったが、それは神の罪過に対する裁きをキリストに負わされた事を示していてキリストを通してでなければ誰も神の元に近ずけない事を物語っている▼旧約聖書は律法・歴史書・預言書・詩書に、新訳聖書は福音書・歴史書・書簡・預言書に分けられる▼エゼキエル書の4つの顔の霊的な生き物が出てくる。それは獅子の顔・鷲の顔・人の顔・牛の顔である。それはイエス・キリストを示し、獅子は王を、鷲は勝利者を、牛は罪過のために屠られる生贄を、人は人となられた神の子であることを表している。新約聖書のマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四つの福音書の記者はそのようにイエス・キリストを描いている▼人類の歴史は族長時代・律法時代・恵みの時代・千年王国の四つあるが、今は恵みの時代で神はあなたと私が神の恵みを溢れるばかり受けて他の人々に流していくよう願っておられるのである。
テナーサックスの音

サックスは音が命だ▼世界一流のテナーサックス・プレイヤーがこぞって欲しがる楽器は1954年に発売されたアメリカン・セルマー・マーク6のシリアル番号が80000代で程度の良い楽器は2,000,000円もする▼私の楽器は殆どがSecand Handsだがそれぞれ個性的な音がする。CONNは87年前の楽器で吹き抜かれほぼ全てのメッキが無くなっているが最も気に入っている。シルバーソニックのKINGは明るく、CanonBallは力強く、CONNは野太く、エルクハート・モデル6はセルマーように華やかだ▼エルクハートモデル6はアメリカンセルマーマーク6の5桁に匹敵する楽器で日本の大井上氏が台湾にいるかつてのセルマーの職人に作らせた楽器に特殊調整を加えて開発した傑作で音源を聞き比べても区別がつかない程いい音色だ▼サックスの音はマウスピースによってもリードによっても音が異なる。Playerは曲想により楽器を替え、マウスピースを替え、リードも替え、聴衆を感動させ、泣かせ、楽しませる▼まして、神はご自身の心や願いを私たちに伝えるために、様々な個性豊かな神のしもべ達をお用いになるに違いない。
アーモンドの花

モーセの幕屋の聖所にある純金の燭台はアーモンドの花の模様や蕾や萼が打物で作られていた▼アーモンドは見張るという意味がある。年若い預言者エレミヤが神に召し出された時神はアーモンドの枝を見せられて神が見るものを彼が見ることを求められた。「主の言葉がまたわたしに臨んで言う、『エレミヤよ、あなたは何を見るか』。わたしは答えた、『あめんどうの枝を見ます』。主はわたしに言われた、『あなたの見たとおりだ。わたしは自分の言葉を行おうとして見張っているのだ。』」(エレミヤ書 1:11-12節)▼キリストが見るように見るとき、キリストが聞くように聞き、キリストが語るように語り、キリストが行うように行うことができるのである。
音と息と霊と命

私はサックスを吹く。ルイ・アームストロングはあの枯れた声で人々の魂を揺るがせた。歌手の森進一も青江三奈も枯れた声でファンを魅了している▼声は息と声に分かれるが息のない声はない。音声の残像は息である。サックスの音も同じである。息が出て音に、音が消えて息になる。息は音の一部である。▼吹奏楽を極めようと研鑽を積む人は楽器の音にこだわる。自分の納得する音、聴衆を感動させる音、シビレさせる音、泣かせる音を出そうと日夜努力する▼ところで聖書では息と霊は同じ語源で「るーあっは」という。創造主が土から作られた人の肉体に魂(心)が据えられ、それに命の息を吹き入れられると人は生ける存在になったと創世記(2章7節)に記されている。息はその人の命そのものであり、その人の存在の最も重要な根幹である▼神の霊は感動や命の躍動や希望や愛を人にもたらす。人が神の命と霊に満たされて歌いあるいは演奏すると神の息がその息や歌や楽器の音色を通して聴衆に向かい流れていく。人々は生きる力を受け、愛を感じ、至高の安らぎと満足に浸るのである。あなたも私も神の楽器である。
すべての人間関係の問題が解決する秘訣

起:
   親子関係、夫婦関係、職場の人間関係、パワハラ、セクハラ、イジメ、学校での人間関係、虐待など全ては人と人の関わりが問題になっています。それを解決できたら社会のほとんどの問題はなくなるのではと感じるほどです。その解決の道は果たしてあるのでしょうか。

  承:
聖書は神と人との関係と人と人との関係についての神の定めを示しています。

    旧約聖書の中に出てくるモーセの十戒は古い定めと言えます。解りやすく言えば「・・しなければならない」「・・してはならない」という内容です。

   これに対してキリストは新しい定めを示されました。
「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」(ヨハネによる福音書 13:34)

人間関係の解決の秘訣を見てみましょう。

転:
    1:愛し合うことにより

キリストは新しい人間関係の定めを「愛し合うこと」と言われました。愛という言葉は日本語では一つですが、新約聖書では少なくても3つの愛が出てきます。

  一つは男女間の愛・肉体の愛を表すエロスで、二つめは心のレベルの友情・兄弟愛を表すフィレオで、今一つは無条件の神の愛を表すアガペです。上記の聖句で使われている「愛し合いなさい」はアガペの愛が使われていますから「あなたがたは神の愛で愛し合いなさい」ということになります。

   新約聖書では神の愛・アガペの内容を四つ挙げています(第一コリント13章7節)。

1:相手の全てを受け入れる

2:相手の全てを信じる

3:相手の全てを期待する

4:相手の全てを我慢する

の四つです。

   キリストは人間関係において「目には目を、歯には歯を」という報復律や罪刑法定主義といった人々を束縛する定めによるのでなく、限りなく寛大・寛容な慈愛に満ちた心で互いに対応するよう言われているのです。

   2:アガペの愛を得ることにより

   しかし、人間にはそのような無条件の愛・博愛は持っていません。持っていないものをあげることはできないのです。

   その博愛はどのように得ることができるのでしょうか?

    聖書には「神は愛である」(神はアガペです)と書かれています。

   アガペの愛は神が私とあなたのためにそのひとり子であるキリストをくださり、キリストは私とあなたのために十字架の上で死んでくださった、その歴史的な事実により神の愛・アガペが示されたのです。

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書3:16)

「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」(ヨハネの第一の手紙 3:16)

キリストを人生に心の中に受け入れることでアガペを得ることができます。

3:アガペの愛に生きることにより

   イエス・キリストはそのアガペを持って生きられました。アガペを具体的に示され、アガペを語られ、アガペで死なれたのです。

「『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。求める者には与え、借りようとする者を断るな。『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイの福音書5章38~48節)

「しかし、聞いているあなたがたに言う。敵を愛し、憎む者に親切にせよ。のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。あなたの頬を打つ者にはほかの頬をも向けてやり、あなたの上着を奪い取る者には下着をも拒むな。あなたに求める者には与えてやり、あなたの持ち物を奪う者からは取りもどそうとするな。人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。また返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである。しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。」(ルカの福音書6章27~37節)

「されこうべと呼ばれている所に着くと、人々はそこでイエスを十字架につけ、犯罪人たちも、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。そのとき、イエスは言われた、『父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです』。人々はイエスの着物をくじ引きで分け合った。」(ルカの福音書23章33、34節)

    法の世界では、同一の法律関係について新しい法律ができた場合には新法を適用するというのが原則で、これは新法は旧法よりすぐれたものと考えられるからです。

   正義を主張したり、何が正しいかでなく、少し自分に死んで相手を生かせてあげてみよう。

 

結:
 1「せよ、するな」という束縛で人を縛り付けるのでなく受け入れ、信じ、期待し、我慢できる人になりましょう。
 2 アガペを語るだけでなくアガペに生きる人になりましょう。

あなたがそのように生き始めるとき人間関係は不思議なように解決へと向かうことでしょう。
孫の唯祝(いのり)1歳8ヶ月が離乳食がうまく進まず脱水症状になり大学病院に入院した▼生まれた時も529gと超未熟児だったので5ヶ月間も乳児の集中治療室で過ごしていた▼やっと両親の愛情たっぷりな生活が落ち着いたところだったが、また孤独で寂しい時を過ごす。妻と面会に行き数時間一緒にいたが、点滴の針の痛さか母親に会えないからかよく泣きまぶたが腫れた▼母親は胃腸炎で二、三日面会に行けず私達祖父母と父親が面会時間ギリギリまで一緒に過ごす▼点滴を受けながらも命に溢れ輝いて泣きながらも動き回っていて、妻と息子である父親と交代で相手をしていても疲れる。いのちは素晴らしい。キリスト者もどんな状況でもキリストのいのちに輝いて生きたいものである。
毎日少しづつ食べたい乳と蜜の流れる地の果物ーいちじく

「不老長寿の果物」といわれるほど美容・ダイエット効果が期待できる。実も葉も薬効と栄養価が高い果物である。

1  アンチエイジング効果
ポリフェノールやアントシアニンや抗酸化物質を豊富に含むので細胞の老化を防いでくれ、体内に発生した“活性酸素”を消去する働きがあり、美肌や老化防止にも効果的である。アントシアニンの機能としては、目の明暗の調節、抗炎症、毛細血管強化などがある。

2  女性の更年期障害予防効果
いちじくは、女性ホルモンのエストロゲンに似た成分を含み、更年期障害予防に有効である。

3  がん予防効果
イチジクの果汁から抽出した抗ガン物質「ベストアルデヒド」は癌細胞を麻痺させる。特に前立腺ガンに良く効くそうである。イチジクを常食している地方は癌の発生が少ないという報告がある。

4  便秘解消効果
いちじくには、ペクチンという水溶性食物繊維が豊富な果物だ。その量はリンゴやいちごのおよそ1.5倍。食物繊維は腸内をきれいに掃除し腸の働きを促す効果がある。

5  健康増進効果
イチジクは脂質が少なく、コレステロールがなく、低カロリーである。主要な栄養成分は糖で、その殆どがブドウ糖や果糖で、ショ糖が少ないことが知られている。有機酸は0.3%前後と低く、その殆どがクエン酸だ。無機成分はカリウムが最も多く、次いでカルシウム、リン、マグネシウム、ナトリウム、鉄などの順だ。このうち、カルシウムはほかの果物に比べて多く含まれている(生果200グラム当たり52ミリグラム、乾果同260ミリグラム)。果物を食べる動物の多くは他の果物が豊富にあっても、イチジクを好んで食べることが知られている。これは鳥類が産卵したり、動物が成長するために必要なカルシウムを摂取するためと推定されている。カリウムは身体からナトリウムを出す働きがあるため、高血圧予防に効果がある。

6  その他
葉の根元を折ると、そこから白い乳のような液が出てくるが、この粘り気のある液体には、皮膚や筋肉をやわらげたり、なめらかにしたりする効果がある。
塗布薬として、痔の患部に直接この汁を塗ると、傷の治りが早くなる。
また、手足の荒れやひじ、かかとが角質化して硬くなったときは、いちじくの汁を塗ると良い。1週間もすると、ガサガサ、ゴワゴワしていた皮膚に潤いが出てくる。いちじくの汁は、実をしぼり器でつぶして取る。ウオノメやタコは、1日に数回、2週間ほど塗り続ける。ウオノメなら芯が自然に落ち、タコもやわらかくなって治る。水虫にも、この汁を日に数回塗ることで症状が改善される。ただし、かなり根気よく続けないと、完治させるのはなかなか難しい。

「ついに彼らはエシコルの谷に行って、そこで一ふさのぶどうの枝を切り取り、これを棒をもって、ふたりでかつぎ、また、ざくろといちじくをも取った。」(民数記13:23)

「また彼らはほしいちじくのかたまり一つと、ほしぶどう二ふさを彼に与えた。彼は食べて元気を回復した。彼は三日三夜、パンを食べず、水を飲んでいなかったからである。」(サムエル記上 30:12)
市原市の若枝家庭集会は毎週火曜日に、所属する教会が違う七つの家庭の姉妹たちが集い神の恵みを分かち合い祈り合うもので30年ほど前から始まった▼かつては私と妻が数年間毎週栃木から片道3時間半かけて通ったが、全国の巡回奉仕が始まってからも年に一度は伺っている▼ご主人を亡くされ障害を持つお子さんを持つ姉妹、癌の病床でキリストを信じ私が洗礼を授けた姉妹、四人のお子さんのうち三人が障害者の姉妹、昨年のベンジャミン・グラハムの集会に余ったチケットで参席しキリストを信じ受洗を待っている息子と信仰を守っている姉妹、事業の関係で訴えられ保護観察を無事終えたご主人と引きこもりの息子さんと祈りながら前進している姉妹、癌のご主人と支え合っておられる姉妹、学習塾を営みながら肺の病のご主人のために祈り続けておられる姉妹などがメンバーである▼問題の真ん中で主を意識しながら他の方々のためにも私達たちのミッションのためにも祈り続けてくださる、皆祈りの勇士である。
カナダはトロントのオープン・ドア・チャーチのハワード・キャッツ牧師は、ユダヤ人でスイスはベルンの新約教会神学校で教鞭をとっているが、以前はユダヤ教の厳格な律法主義に基づいて生きていた。

    メシアニック・ジューになってキリストに仕えたいと願っていたが、17年目にロバート・ユーインに出会った。

    ロバートは神の恵みだけが人を変えると教えたがハワードは非常な用心深さを覚えた。なぜなら、いまだしっかりとユダヤ教に基づく律法主義が根付いていたからだ。じつに、恵みと律法主義は油と水のようなものである。

    ロバートはハワードの心の中で律法主義と神の恵みが戦っているのを知り、次に会うまでの一年間続けてハワードのために祈った。

    ロバートは律法主義について聖書から詳しくハワードに説明し教えた。ついに、ハワードの心に神が照らし出された多年に渡って築きあげられてきた律法主義を、注意深く粉々に粉砕することができた。

    律法主義は人を追い出すが、恵みは人を抱きしめるのである。神の恵みだけにより人が変えられていくことが教会の存在目的である。
神の守り

    今日の昼、某道の駅で車の暴走があり駐車していた車5台が次々とぶつけられ、私の従兄弟の新車フリードも写真の通り悲惨な状態になった。警察の現場検証での加害者の話によるとバックで駐車しようとして最初の車にぶつけて頭が真っ白になり、ブレーキと思い違いをしてアクセルを思い切り踏み込みさらに4台の車に物凄い勢いでぶつかった。その勢いで3台の車は横方向に大きく動かされた。その一台の動かされた車にぶつけられたのが、従兄弟の車だ。2台には人が乗っていて人身事故になった。私の車はというと、従兄弟の車のすぐ後ろに留めていたが神の守りでぶつけられなかった。従兄弟には悪いが、神はご自分の子を特別に扱われるのである。
大正初期から新潟県村上で製糸工場を始めた藤房吉は、秋田県や山形県からの200名を超える女工さん達に支えられて順調に営みが進んだ。しかし、昭和初期の世界不況の影響をもろに受け悲しくも首を吊って自殺し心ない人々に財産を奪われ、16歳を筆頭に8人の子供と妻ウメは路頭に迷った。房吉には信頼できる相談役やブレーンがいなかったからと、末っ子の房徳は語る。彼を囲んで藤家いとこ会が開かれた。様々な労苦を通ってきた兄弟達の子なのでいとこも仲が良い。いつくしみ深い友が祖父房吉にいたらとしみじみ思う。
生活陶器の王者、茶道具として有名な焼き締めと呼ばれる高級陶器の材料である粘土に求められる4つの性質

1 可塑性   作者の意図する形に作られやすい性質

2 粘性    形作られた土が元に戻らずその形を保つ性質

3 耐火性   焼き締めは1200度以上で3日程焼かれるのでそれに耐えられる土であること

4 土味   釉薬を塗らない焼き締めは炎と熱と薪が焼けて飛び散る火花が作る灰によって模様となるのでそれに相応しいと作者が求める土の性質

   陶器の個性は粘土で決まる。焼き締めで有名な備前焼の陶工は自分の作品のために最良の土を求めて山奥深く分け入り探し求める。目当てを付け、掘り返し、手で確かめ、味見をする。酸かったり、苦い土は扱いにくく割れてしまうことが多いからだ。

    陶工は時に様々な性質に優れている産地の土を混ぜ合わせる。例えば伊賀黒蛙目粘土は耐火度のある荒目の粘土で、瀬戸本山木節粘土は鉄分が少なく白く粘性のある粘土で、東美濃黄土は酸化土だが1180-1200度で明るい赤色に発色する。作品のために最高の個性を出すために最も適した原土を混ぜて調合するのである。勿論、陶工は自分が探した産地の粘土だけを使用して作品を作ることもある。

    神の器も一つづつ神の作品として7つの工程を経て作り上げられる。その最初の過程で土の性質が整えられ備えられる。(詳しくは、筆者の「神に器が造り上げられる七つの工程」を参照されたい)
Παντα δυνατα παρα τω θεω .

Παντα δυνατα παρα τω θεω .
(パンタ  デュナタ    パラ    トオ  セオウ)

神には何でもできないことはない。

With God all things are possible.

神学校でギリシャ語を学んだ時この短い文章にメロディを付けて覚えた。家族にも覚えさせて、里子も一緒に歌った。信仰が沸々と湧いてくる御言葉である。
モーセの幕屋の聖所にある金の燭台に学ぶ教会政治

    教会の政治ないし統治は聖霊なる神の手に委ねられている。幹から六つの枝が出ているが、キリストが頭であり私たちが枝であることを示す。頭なるキリストの権限を執行されるのは聖霊の働きだ。7つの燭台は7つの霊を表す。ロマ12章6-8節は教会の務めの代表的なリストが各教会に必要なものであることを思い浮かばせている。神の現実の統治は、地域教会で召命を受け心を込めて聖霊なる神の支配に服従する教役者を通して、私たちが見ることができるようになされる。

1 : 燭台の寸法は定められておらず、1タラント(34.2kg)の重量でつくられた。地域教会がいかに神の偉大さを受け入れるに応じてその大きさが決まる。

2: 燭台は60の部品から成る(出エジプト25:31-40)。台座(1個)、支柱と枝(7個)、萼(22個)、節(9個)、花弁(9個)、灯火皿(7個)、火皿(1個)、芯切鋏(1個)、芯取り皿(1個)、油の器(1個)、油(1個)だ。聖書で60は神の義を表し、クリスチャン生活を支えるものだ。幕屋の外庭は60の支柱で支えられていた。パウロは書簡の中で義という言葉を60回使っている(ストロング1934年版)。60は5に12を乗じて導き出されるが5は幕屋を覆う幕の組み合わせ数(出エジプト26:3)で12は統治を表す。

3: 燭台はアーモンドの花の形が付けられていた。アーモンドは冬に咲く開花の先駆けの花だ。アーモンドは見張ることを意味し、その22個の萼は充填を意味する。聖霊なる神が私たちを満たしたいと望まれることが22あることを示す(エペソ5:18-20)。

4: 節が9つあるがそれは聖霊の9つの賜物を表す(第一コリント12:8-10、1:7)。節は上にある飾りを支えるもので魂の中に神の王国を立てあげるものだ(ロマ1:11、7)。

5 : 9つの花弁はキリストの香りを表し、9つの御霊の実とその重要性を示す(ガラテヤ5:22、23、6:2)。

6: 燭台は多くの部分から成るも一つの金の塊から作られた。教役者が自分の為の王国を立てあげると、教会統治の神の定め破ることになり霊の一致を壊す。教役者の務めは教役者自身のものでなくキリストのものであり、教役者はキリストにあって全体でひとつなのだ。

7: 純金が打ち叩かれて作られた。そこには、他の器具のような木と言った人的要素は存在しない。教会で神の統治もたらすために聖霊なる神に用いられるためには教役者は自分自身に死ななければならないことを意味する。

8: 燭台は夜間だけ灯されていた(出エジプト27:20,21、30:7.8)。祭司たちは継続的に新しい油を必要とした。パウロはクリスチャンが主にある灯火であると言った後で聖霊に満たされなさいと勧めている(エペソ5:18)。

9: 燭台は芯を整えるために芯切り鋏と芯取り皿が備えられていた(出エジプト37:23)。これは、私たちの涙が神の前に覚えられ、私たちの務めの真価が試される時も神はその涙を保つのも忠実であられることを示唆している(詩篇56:8)。芯の整えは教会の訓練の重要性を示す。

10: 純金の鋏があった(出エジプト25:38)。燭台の燈心が整えられ、燃え尽きた芯が切られ地に落ちるときは、肉体の手でそれを拾うことはなかった。教役者が神の愛を表す純金の鋏以外で神の子どもたちに訓練や試験を行うと神の定めを壊すことになる。

11: 油を入れる器があった(民数記4:9)。祈りの集いや賛美は神の容器から引き出された聖霊の油を蓄えておくことである。油の蓄えがなければ燭台の輝きはすぐに無くなってしまう。

12 : イスラエルの約束の地への旅では、燭台や器具は担ぎ台の上に置いて青い布とじゅごんの皮で覆われコハテ族の肩に担われ運ばれた(民数記4:10)。この世は外側のじゅごんの皮だけを見ることになるが、その中には聖なる尊いものがあったのだ。真の教会は多くの場合外向きの美しさを欠いているものである(第二コリント4:7イザヤ53:2)。
ナツメヤシのフルーツケーキを作ってみた

久しぶりにフルーツケーキを作った▼今回は普通のレシピに材料を一部変更した▼ナツメヤシをふんだんに使い、バターの代わりにオリーブオイルを使い、仕上げに焼きあがったところにラム酒を注いで香り高く仕上げた▼妻が食べると「美味しい」と言ったので合格としよう
2016年の巡回奉仕受付しています!

今日辺りに到着するはこぶね便に、私どものミッションレポートが入っています。
自己紹介などを参照ください。
確定している予定は一部です。
順次書き入れていきます。

・3/8(火)市原若枝集会
・3/15(火)栃木市文化協会でコンサート
・3/22(火)-27(日)ネパール 教会リーダー聖書セミナー
・4/17(日)勝利教会渋川チャペル
・5/21(土)サンライズ杉戸教会献堂式
・5/28日(土)~29日(日)
                カリスチャペル名張

東北地方:6月11日(土)~26日(日)
・6/11(土)福島ニューホープチャペル
・6/12(日)青森キリスト教会
・6/16(木)-17(金)盛岡福音宣教教会
・6/18(土)-19(日)原町聖書教会
・6/21(火)夜越山祈りの家キリスト教会
・6/23(木)気仙沼聖書第一バプテスト教会
・6/24(金)大船渡教会
・6/25(土:午前)ハレルヤチャペル滝沢
・6/25(土:夜)盛岡月が丘キリスト教会
・6/26(日:午前)盛岡みたけチャペル
・6/26(日:午後)盛岡チャペル

北陸・関西・東海・中部 地方: 7月8(金)~24(日)
・7/8(金)コミテッド・ジャパン浜松教会
・7/9(土)-7/10(日)美濃ミッション
・7/16(土)-17(日)入善キリスト教会
・7/22(金)神戸今井家家庭集会
・7/23(土)飯盛野教会
・7/31(日:午後)サンライズ杉戸教会

北海道地方: 9月10日(土)~25日(日)

中国・四国地方: 10月8日(土)~23(日)
・10/8(土)-10(月)高知ペンテコステ教会
・10/15(土)-10/17(月)土佐清水キリスト教会
・10/16(日:午後)中村福音キリスト教会
・10/17(火)高知鏡川病院
・10/22(土)岡山福音教会
・10/30(日:午後)サンライズ杉戸教会
・11/6(日)さいたまキリスト教会

九州地方: 11月12日(土)~12日(日)
・11/13(日)カリスチャペル福岡

沖縄地方:  12月4日(日)~12日(日)
・12/10(土)沖縄シャローム教会
・12/23(金)栃木市キャロリング
・12/25(日:午前、午後)東大阪福音教会

関東地方は随意の日です。

ハープやオカリナ、ピアノ、ソプラノ、サックス、などで賛美や一般曲をご要望に応じてコンサートや礼拝、賛美集会、聖書研究会、子育て講演会と演奏会、修養会など承ります。

お問い合わせ、申込みはミッション事務所
☎︎  080-6562-1427
あるいは
MissionJehovahJireh@yahoo.co.jp
にお願い致します。
毎日少しずつ食べたい乳と蜜の流れる地の果物   (アーモンド)

ビタミンE,ポリフェノール、不飽和脂肪酸、カルシウム・マグネシウム・亜鉛などのミネラル、鉄分、食物繊維が多い。

ドロドロ血液のもとになる悪玉コレステロールの減少効果、血栓予防効果、活性酸素除去作用、抗酸化作用、貧血予防、精神安定効果、安眠効果、便秘解消効果、ダイエット効果、脂質代謝促進効果、女性ホルモンの正常化作用、冷え性解消効果、老廃物排泄促進効果、美肌効果、アンチエイジング効果に優れている。
数ヶ月前ある著名な牧師にアポをとって遠距離を時間かけてお会いした▼その方はよほど私共の来訪が気に入らなかったのか、気分が悪かったのか、終始これ以上ない不機嫌で無愛想な表情をされていた▼今まで数知れない程の牧師にお会いしたがそのような方は初めてであり、その方の人柄を疑いながら去った▼暫くその事柄を思い出しながら、神は何を教えようとされているのかを求め続けた▼すると、かの牧師はこの上なく素直で正直に自分の感情に従って対応したのだということが示された。普通はどんなに苦境でも気分が悪くてもそれを神に委ねて表面は笑顔で気持ちよく対応してくださるのが牧師である。しかし、自分が忙しく、余裕もなく、気分も悪い時に訪問を受けたら表面上だけ取り繕って笑顔で気持ちよさげに対応してなかっただろうかと自問した▼それを、主は偽善者と責められたのだ。私たちの主は、ご自身を裏切り奴隷の値で敵に売り渡すイスカリオテのユダにさえも足を洗われ真心から愛され悔い改めを期待されて接しられた▼私も魂の全てに於いて、真心からどんな人にも主の愛を持って、主の見られるように、主が感じられるように、主が語られるように接する者であらねばならないと強く教えられて、この上ない感謝となった。
今年も確定申告時期が近づいてきた▼若い頃、長年会計事務所勤務していて何件ものお得意先の年間会計処理を徹夜でやったが期限の3月15日に終わらない夢をよく見た▼教会の会計処理も会計原則に従い、正規の簿記にのっとり複式簿記で財務諸表を作成している教会は多くはないようだ▼私は経験を生かして教会の会計組織を立てあげたり、会計規則を作るのを手伝ったり、教会会計セミナーも開催した▼今でもそのような必要がある教会があれば喜んで支援をしたい。
韓国の教会殆どが借財あり返済に大変で本来の働きに金を使えてないと大きな社会問題になっている▼互いに愛し合う事の外は何人にも借りがあってはならない(ロマ13:8)と神は定めている▼その原則は個人生活にも教会の運営にも変わらない▼霊により始めたものを肉により仕上げてはならないのである▼韓国の教会が健全に成長し世界の模範となるように祈ろうではないか。
今度の日曜日に奉仕するソウルのビジョン教会でのメッセージの草稿です。

肉の人と霊の人

題  目:  肉の人と霊の人

テキスト:Ⅰコリント3:1〜3

起:「やった。1年無事故無違反の証明書が自動車安全運転センターから来たよ。主よ、賛美します。これまで毎日毎日いや、毎瞬毎瞬を守って頂き心から感謝します。」私が数年前に起きた出来事に対する反応である。しかし、それを見た妻が「あと4年無事故無違反で頑張らないとゴールド免許にはなれないのよ。できるの?」と水を差した。

 我が家の巨峰の刈り込みをした時のことである。巡回奉仕旅行中に大量の実が大きくなり始め昨年に続いて黒とう病が出始めていたからである。ほぼ全ての房を切り落としながら「主よ、私にも存分に刈り込みをしてください。そして、大きく立派な見事で美味しい実を結ぶことができるようにしてください。」と祈れた。昨年は「少し刈り込みの時期が遅れただけなのにどうして全ての房が黒とう病になったの?」と不満で一杯だった。

 同じ事柄に直面しても片や神の方に姿勢が向かっている人は感謝と賛美をし主に栄光を帰している。しかし、同じキリスト信者でありながらもこの世の方に姿勢を向けている人は不安と不信仰と疑いを投げかける。

 パウロは同じキリストを受け入れた人でありながらも肉の人がいて霊の人もいると述べている。成長していないこともさることながらその人の姿勢が大事だと示される。今日の聖書の箇所は第一コリント3章1節から3節である。

「兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。 わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。 」

承:パウロは肉の人は乳飲み子すなわち成長していないクリスチャンであると語っている。ヘブル人への手紙5章12節から6章2節では
「実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。 」
と述べている。

 キリストを信じるとその瞬間に人の霊に主の御霊が来てくださり宿られるようになる。その時、霊は主の持っておられる全ての良いもので満たされる。永遠の命・永遠の救い・永遠の希望・神の至高の愛・永遠の安息・神の信仰などある。しかし、魂は本来人のもの人がその意志を持って支配する場所である。霊と魂の隔ての幕は、至聖所と聖所の幕がキリストが死なれた時人の手によらず裂かれたように、キリストを信じた時に神によって取り除かれ場所は違ってもあたかも部屋続きで主が自由に働かれる場所となるのである。

 しかしながら、とにかく彼らの魂はキリストにあっては幼子なのである。聖書を読んでも多くは硬い食物であり、義の教えを食することはできないのである。例えば神の定めを破っては悔い改めをし続けるのである。しかし、成長すると御父の心を理解し解るのでいつまでも定めを破ることはしないようになり、御父の御心の中に留まれるようになる。また、魂のある領域で自己中心という牙城をキリストに明け渡すとそこは自我に死にキリストが支配されることになる。その部分において霊の人になるのを見るであろう。

 乳を飲んでいる神の子は柔らかな全く骨も皮もない魚の身を食べているとも例えられる。その人は系図などは骨に該当しそこから神の恵みは得られない。しかし、少しずつ内なる人がキリストにあって成長してくるとかつては得られなかった御言葉からの恵みを系図のような骨の部分からも得ることができるようになる。

 一例としてマタイによる福音書の1章にはイエス ・キリストの系図がある。そこに5人の女性が出てくる。皆特別な困難を通った女性であって魂の5感を教えている。タマルはユダに印を求めそれを手にして正しい裁きを得たので、記憶を表している。ラバブはエリコをイスラエルが攻め取ると考え赤い紐を吊るし希望を置いたので想像を表している。ルツは姑との契約を重んじ姑を一人にしなかったことから良心を表している。ウリヤの妻バテシバは夫を殺したダビデ王を愛したので愛情を表している。そしてマリヤは御霊によって主・イエスを身ごもり思い巡らしたので思索を表しているのである。

 魂の五感について明確になったところで固定的メッセージを見てみよう。
 魂が成長することによって肉の人ではなくなり霊の人になるということも言いうる。
しかし、神の子どもたちもこの世で生かされているのであるから、常にこの不信仰でサタンの誘惑と攻撃にさらされる信仰の戦いの日々において明確に知っておかなければならないことがある。

 
転:
1:神の子どもが肉の人と呼ばれる状態があるのはその人が罪の法則の中に生きているからである。「それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです 」( ロマ人への手紙7章21節、23節、25節)。
 
 罪の法則は敵であるサタンがこの世界を通して働くものであるからこの世の法則ということもできる。神が全能主であると知っていてもこの世の方に魂が向いているので、主の守りを求める代わりに保険に入ったり、癒しを求める代わりに病院に行ったり、薬や健康食品を買ったりしようとするのである。誤解しないで欲しいのは、病院に行くことや薬を買ったり保険に入ることが不信仰だと言っているのではない。

   ペテロの例を見てみよう。マタイ14章で主・イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせご自身は山で祈られてから、湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。 舟は既に陸から離れており、逆風のために波に悩まされていた。弟子たちは、主・イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。主・イエスが「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と話されるとペトロが「主よ、あなたでしたら私に命令して水の上を歩いてそちらに行かせてください。」と願い、主が「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり沈みかけ「主よ、助けてください」と叫んだ。   イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。

 ペテロは最初は信仰の法則の中で主・イエスだけに姿勢を向け、主・イエスの言葉にのみ従い、主の御顔だけを見て波の上を奇跡のような一歩一歩を歩んでいった。これが真の信仰の歩みである。しかし、暫くして意識を主から逸らして、耳を風に向け、目を波や自分の足元を見たのである。その瞬間ペテロはこの世の法則に一瞬にして支配されてしまい、沈みかけたのである。

 肉の法則は我々がこの世界に生きている限り、我々に圧倒的な力を持って勝ち誇っているのである。しかし、「私は既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)と言われた主にのみ目を向け、主の御言葉にのみ従って行くときに信仰の法則に生きることができるのである。

2:神の子どもが霊の人でありうるのは、その人が霊の法則の中を生きているからである。
 たとえ肉体がこの世界の法則にどっぷりと支配され、味覚・触覚・視覚・聴覚・嗅覚の全てが圧倒されていても、その魂の姿勢を主の方に向け、主を意識しているならば霊の法則の中に留まることができるのである。

 至聖所で務めをされる大祭司は聖所でも外庭でも祭司を助けて務めをされるのである。そのことは神の子どもたちの霊に住まわれている主が魂は勿論、肉体にも働かれ支配されたいと言うことをはっきりと覚えておかねばならない。

 霊の法則は主・キリストにあって既に与えられているものである。「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」(ロマ8:2)。

3.霊の法則の中で生きるか罪の法則の中で生きるかは各々の神の子どもたちに与えられている自由意志に託されている。言い換えれば、すべての神の子どもたちは魂の中でいつでも命の法則を選ぶことができ、また罪の法則も選ぶことができるのである。自らがその瞬間瞬間にどちらを選ぶかを自分の意思で決めているのである。

 既に魂の五感について触れたが、別の魂の機能は感情と意思と知性である。これは聖所の金の燭台とパンの備えの台と香の壇によって教えらるものである。金の燭台は教会を治める御霊なる神の意思を示し、香の壇は神への礼拝についての神の定めを表すので感情を示し、パンの備えの台は神を知る知性を表している。魂の機能について啓示している。ここでは意思について注目している。

 注意しなければならないのは誰も神のせいにしてはならないことである。「誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。」(ヤコブ1:13、14)。同様に悪魔のせいにしたり人のせいにしたりという責任転嫁をしてはならないのである。

 
結:
1.いつも主だけを見、主だけを意識し、主の言葉にのみ信頼し、主と共に霊の法則の中を歩む霊の人になろう。

2.責任転嫁をせず与えられた意思を持って、命と御霊の法則を選び続けるようにしよう。
三つの思い違い

題     目  :  三つの思い違い
テキスト : マタイ22:29
「イエスは答えて言われた、「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。」

起:
  「信仰を持っているたと言っても自殺したら地獄に行くのか?」、「申告告白して洗礼を受けたが信仰を捨ててしまった人は天国に行けないのか?」、などという信仰者の難問に牧師はどう答えるべきか?神の言葉である聖書は何と定めているか。聖書を読み違いしたり、様々な思い違いをすることがある。その結果、多くの方々が「私は本当に救われているのだろうか」、「天国に行けるのだろうか」と不安をもたらすことになる。

    「思い違い」を辞書で調べると、うっかり間違えて思い込むことは勘違いで、誤った解釈をして心得違いしていることが思い違いと言われる。勘違いはより単純なもの影響が軽度なものを言い、思違いはより質の悪い影響が大きいものを言うようだ。思い違いの方が勘違いより重度ということになる。端的に言うと教義や教理について、信徒のレベルでは勘違いといえるが、教師や牧師や説教者のレベルでは思い違いとなるのだ。

承:
     聖書は霊と魂と体の救いを明確に分けて定めている。霊に与えられる救いは義認であり、魂に与えられる救いは聖化であり、体に与えられる救いは栄化である。自制で言うと霊はキリストを信じてキリストにある永遠の命を受けた過去のしかし天に名が記された救い、魂には復活のキリストの命に日々満たされキリストの霊に満たされ続け従い続ける現在、そして死んで体は土に戻ってもやがてキリストの軽挙の時に栄光の体を頂くという将来のものだ。モーセの幕屋の聖所の中にあるパンの備えの台には12のパンがあった。それは神の教理はいかに分かち合われるべきかについて教えています。ごちゃまぜでなく正しく分けて教えられなければならないのだ。

転:
1.霊と魂の思い違い
     神が与えられた救いをどこで誰が保っているかについの思い違い

   思い違いは、神が与えられた救いをどこで誰が保っているかについてである。聖書は明確に人は霊を持つものに造られ(創世記 02章 07節、伝道の書12章 07節)、キリストを信じた時霊は神にあって生きるようになり(エペソ人への手紙 02章 05節)、そこにキリストの御霊が住んでくださるようになる(ガラテヤの信徒への手紙 02章 20節、ヨハネの黙示録/ 03章 20節)と教えている。霊は本来人のものでなく神ご自身の領域である。モーセの幕屋の至聖所を学べば分かる。だから「その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。 」(ヨハネの手紙一5章11節)と記されている。救いと永遠の命はキリストを信じた者の霊の中でキリストにあって保たれているのだ。私たちの罪や失敗や信仰生活の如何に関わらずです。魂は人間本来の場所です、ですからいくら心(聖書では心を魂という)の中で「聖い信仰生活を全うするぞ」という強い意志があっても、自分や他人の思いや言葉や振る舞いにより信仰を失い、信仰を捨ててしまう場合もありうるのだ。そういうわけですから聖書は次のように記している。

「人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。 」
   (ガラテヤ2章16節)

「しかし、恵みによるのであれば、もはや行いによるのではない。そうでないと、恵みはもはや恵みでなくなるからである。」(ローマ人への手紙11章 06節)

「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。 」
   (エペソ人への手紙02章 08節、9節)

行いによるのではなく、ただ信仰によって義認・救いが与えられると語っている。キリストが受けられた7重の苦しみにより、また私たちが行くべきゲヘナに主が行ってくださった故に与えられた恩寵の救いの御業が人の不完全な行いによりその有効性が左右されることはあり得ない(ヘブル人への手紙 13章 05節)。

2.義認と聖化の思い違い

 また別の思い違いは、義認と聖化を混同している。聖化は魂に対するもので、義認は霊において受けたものだ。つまり義認はキリストを信じた時完成した。聖化は現在形で死ぬまでキリストの姿に向かって成長していくものである。日々自分に死にキリストだけを見続けてキリストの言葉に従い続けていくものだ。この聖化は救いとは別だ。義認は霊に受けるもので聖化は魂に受けるものだ。義認はただ一度だけ受けるものですが、聖化は毎日受け続けていくものだ。義認は過去のものだが、聖化は現在進行形のものである。義認は全く神の恵みによるが、聖化はあなたと私が自分自身の意志で受け取っていくものだ。言い換えると、義認は神ご自身が全てを完成してくださいましたが、聖化は私たち一人一人の神との共同作業です。至聖所は霊について教えるが、聖所は魂について教えている。
     丁度聖所で祭司たちが毎朝毎晩、香を炊き、夜には灯火をともし、朝には灯火を消して芯切り鋏などで燈心を整えたように、またいつも新鮮さを保つ乳香を備えの台にあるパンに塗り毎週取り替えそのパンを食したように、魂は毎日新鮮な神の言葉を食し、祈りと感謝と礼拝を捧げ、香の芳しい香りが聖所を満たしたように神の霊に満たされなければならないのだ。しかし、至聖所は贖いのために大祭司が一年に一度だけ入る所である。一年に一度とは文字通りの意味でなく、私たちにとっては一生に一度という意味である。ペテロの第一の手紙 2:9には「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。」とある。

3.救いと報いの思い違い

    救いと報いも違う。地上で主に全く従い主の御心に生き、主の業を行い通した人には天においてその報いがある。しかし、木・草。わらで築くような人生を生きた人にはやがて火でその仕業が試されすべてが焼け落ちて報いはないかも知れない。しかし、キリストにある永遠の救いの土台は残るのである。(第一コリント3章10〜15節)。

    キリストの贖いである義認という救いは人の思惑や思考により定められたものではなく神御自身が神の権威と秩序により定められているものである。この救いはキリストを信じることであるが、それは御子キリストの血による新しい(贈与)契約書に印を押していただくことである(ルカ22章20節、第一コリント11章25節、ヘブル9章15節)。そしてこの救いは人の生き方に左右されない(酬いとは別のものである)からいつまでも失うことはない御子にあって与えられる永遠の贈物である。加えて誰も(悪魔も悪霊も本人も含まれる)父と御子の手から救われた者を奪うことはできないのである(ヨハネ10章28ー29節)。ヨハネ伝10章28節の原文は二重の否定の言葉をもって断じて決して滅びることはない、しかも永遠にまでもという言葉が加えられているのである。更に「主の御名を呼び求める者は、誰でも救われる(ローマ10章13節)」とある。かつてベトナム戦争の激戦地である従軍牧師が多くの死に瀕している兵士に極めて簡潔な福音を語りキリストを受け入れる様促したと言う。「イエス・キリストをあなたの救い主として信じなさい。そうしたら天国にいけるよ」と。そんな僅かの時間にでもキリストを信じた者は最後の息が終わった時天使が彼を連れて昇っていくのを、信じなかった者は黒い霊がその魂を連れて下に降りていくのを見たと語っている。そんな死ぬ瞬間とでも言えるような時にでも主を信じる者は義とされ天国にいけるのである。世界で20億以上とも言われるクリスチャンによって今や限りなく多くの人々が福音に接しているのである。人生に一度や二度は聖書の言葉や主・イエスの十字架の話を聞いたと言えるように先に救われた者たちは様々な方法で伝道や証しをしているのである。しかも、たとい魂を悪魔に売り渡してしまったり、罪の奴隷となってしまったり、自殺をしたり、全く聖書も読まず祈りもせず、教会にも行かず敗北的なクリスチャン生活を送ったとしてもそのキリストにあって頂いた永遠の命は決っして失うことはなく天国に行けるのである。ただ酬いは別のことである。聖書はキリストくを信じた者すべてが必ず天国に行くことを約束しているのである。


1.霊・魂の違い、救いと報いの違い、義認と聖化の違いをよく整理しておこう。

2.思い違いしないために、啓示と理解を与えられる御霊の助けを求めながら、聖書全体をよく読もうではないか。
韓国ではかつて多くの方々が貧しく主よ、と叫びながら、断食や徹夜や早天の祈りをして偉大な供給者である神に祈り求め、そして今ある繁栄を得たのだ。
    しかるに、今は立派な会堂を作るために、神にではなく銀行に願い込み、何とか建てた後は借金の返済で自分の教会の礼拝にも出れず、癌で死んでいく程苦労している牧師が少なからずいると二人の副牧師が語った。ジョージ・ミュラーはお金の為に銀行回りはしなかった。そういう時は自分の部屋に入って偉大な供給者に祈ったのだ。聖書は借金をするな(ローマ13:8)と戒めているが、この神の定めはこの国でも蔑ろにされているようだ。
    博士号を持つ牧師が求められ、大きな教会こそ素晴らしいとされ、宣教活動の評価は2,3年間で結果を出すことが求められ、成果の見えない国への支援は打ち切られていくらしい。
     神への信仰ではなく、経済力と名誉と人の数が基準になるのは神の心と願いとはかけ離れているのではなかろうか。「主の目はあまねく全地を行きめぐり、自分に向かって心を全うする者のために力をあらわされる」(第二歴代16:9)。真の教会を建て上げるためには反面教師として写って仕方がない一日であった。韓国の教会が真の世界の模範的な教会となっていくように祈ろう。
昨日韓国に来た。今日午後2時からは仁川大学で教鞭をとっておられるチェ紗玉先生の基督教大韓監理会日本宣教教会で特別賛美と説教の奉仕をした。午前はチェ先生のご主人が長老をしておられチェ先生もかつて長老だった母教会のメソジスト教会で礼拝に出席した。この礼拝堂は一回の参席者が3000名入り5回礼拝をしている。韓国では中規模の教会であろう。日本にもやがて10000人教会が中規模だよと言われるようなリバイバルを信じ思い描いた。
ノンクリスチャンの霊は死後どこに行くか

    「ノンクリスチャンの霊は死後どこに行くか」明確に理解していないキリスト信者が多い。これは、霊と魂と肉体をはっきりと分けて理解せずにそれぞれについての神の定めを思い違いしているからである。

    先ず、霊と魂を区別して考えることが大切である。その区別は医者も心理学も哲学者もできず、ただ神の言葉だけが分けることができる。「というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる」(ヘブル4章12節)とあるが、新改訳聖書では「霊と魂の分かれ目」としてより明確である。魂は知・情・意を司るところで所謂自我である。しかし、霊はキリストを受け入れるまでは死んだものであって、信じた時に初めて神にあって生きるようになる所である。「 さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって(エペソ2章1節) と書かれ、また「罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし―あなたがたの救われたのは、恵みによるのである―」(エペソ2章5節) と記されている。以上で分かるように霊は神ご自身だけが住まわれ占有される場所である。これは至聖所と聖所の違いを学ぶとよく理解できる。

    肉体は土から作られそこに魂が据えられ、更に命の息(霊)が吹き込まれて生ける者となった(創世記2章7節)。しかし、神に似せて人は霊・魂・体を持つ統合体として創造されたが、悪魔は人に罪を犯させたことによりその統一体を破壊した。人は死ぬ存在となった。そこで神は永遠の救いの計画を立てられた。御子の全存在を通して罪の贖いを完成なされたのだ。御子の体は生贄として屠られ血を流された。御子の魂は私達罪人が死後行くべきゲヘナに行かれ苦しまれた。レビ記16章のアザゼルの山羊がそれを教えている。キリストの霊は屠られたご自身の流された血を天の至聖所に携え真理の完全な贖いを完成されたのである。「かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。」(ヘブル9章12節)であるから、信者はその霊に義認という救いを、魂には聖化という救いを、肉体には栄化という救いを与えられる。それはキリストを信じ救われた過去、キリストの復活の命を受け続け信じ続けて生きている現在の救い、死後軽挙の時に栄光の体に変えられる未来の救いと分けて理解することもできる。しかし、キリストを受け入れることなくして死んだ人は救いがない。あるのは悪魔のために備えられた滅びと永遠の死のみである。やがて白いみ座の裁きの時に海も死も黄泉もその中にいる死人が出されて命の書に記されていない者は行いに応じて裁かれるとあるから、本来の人の中心である自我即ち魂と肉体が裁きのために復活させられ永遠の死に向うと聖書は記している。(黙示録20章13〜15節)。

    聖書は 人の死について「ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る」(伝道の書12章7節)と述べている。信者かそうでないかを区別していない。従って不信者の霊も神の元に帰るのである。つまりキリストを受け入れず救いを得なかった人の霊・魂・体は悪魔が破壊した分裂状態になってしまうのである。即ち、霊は神の元へ、魂はゲヘナに行き次に第二の死である永遠の滅びへ、体は土に帰るが白いみ座の裁きの時に復活して裁きを受け第二の死へ入ると。であるから、キリストの救いを不信者に伝えることは信者の急務であり、宣教は重大な使命である。