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ピーター藤・和子

2012年1月12日木曜日

主を待ち望む4つの態度

エリシャの時代は政治が混乱し人に期待できない状態であった。時に人々は神を求めた。
ある日、エリシャはシュネムに行った。そこに一人の裕福な婦人がいて、彼を引き止め、食事を勧めた。以来彼はそこを通るたびに、立ち寄って食事をするようになった。彼女は夫に言った。『いつもわたしたちのところにおいでになるあの方は、聖なる神の人であることが分かりました。あの方のために階上に壁で囲った小さな部屋を造り、寝台と机と椅子と燭台を備えましょう。おいでのときはそこに入っていただけます。』」(列王記下 4章 8〜10節)
シェネムの婦人は神の僕エリシャを待つために2階の部屋を設け4つの家具を備えた。寝台と机と椅子と燭台である。主を待ち望む4つの態度をこの4つの備品を通して見てみよう。


 その前に屋上の2階屋に注目すべきである。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」と主・イエスに命じられた弟子たちは、泊まっていた家の上の部屋に上がり熱心に祈りつつ主を待ち望んでいたのである(使徒業伝1章)。またトロアスの2階屋ではパウロが神の言葉を夜を徹して語りユテコが眠って落下し死んだが神により生き返らせられた。神の顕現を求めていた人々は多いに強められたのである(使徒業伝20章)。


1:燭台 モーセの幕屋の聖所の燭台の支柱にアーモンドの花の形をした萼と節と花弁が付けられていた。「エレミヤよ、何が見えるか。」と主から問われた時、「アーモンド(シャーケード)の枝が見えます」と答えた。主はエレミヤに言われた。「あなたの見るとおりだ。わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと見張っている(ショーケード)」(エレミヤ1章11、12節)。アーモンドの枝等を刻み込まれていた燭台は注意深く見張るという意味あいを持っている。
 ダビデの3勇士は主人ダビデの「ベツレヘムの城門の傍らにある、あの井戸の水を飲ませてくれる者があればよいのに」の呻きのようなを一言聞き漏らさずペリシテの陣を突破し、ベツレヘムの城門の傍らにある井戸から水をくみ、ダビデのもとに持ち帰ったのである(2サムエル記23章15、16節)。
 注意深く見張りながら主を待ち望む事である。「わたしは歩哨の部署につき、砦の上に立って見張り、神がわたしに何を語り、わたしの訴えに何と答えられるかを見よう。」(ハバクク書2章1節)。
 ヨハネはいつも主のみそばにいて注意深く主の言葉や行動を見聞きしていたので黙示録が与えられた。
 マリヤも主のみそばで主の言葉に聞いていたので深い神の知恵が与えられた。
 ヨブは3人の友人に対して自分を主張していたがエリフが語り出したとき注意深く聞くようになった時主の語りかけを聞いた。
 主を注意深く主を待ち望むとその報いとして深い神の知恵が与えられる。御座にその人を連れて行かれるのである。


2:机 使え合う事を象徴する。机は4本脚があり、それは神の事柄を神の時に神の方法で神にある仲間と行うべきと教えられている。私は木工でテーブルを作るが、テーブルは歪みやひずみを削って無くし水平に作り、そこに同じ長さと同じ太さの足を4本付ける。テーブルが水平なので足がどれかが長かったり太すぎたりするとバランスを欠きひっくり返ることもある。アロンとフルはモーセの両腕を終日支えて神にある勝利を得た(出エジプト記17章)。神にある仲間と仕え合わないと4つの脚は不安定になり机は倒れてしまう。低い脚は仕えることを通して伸ばしてあげ、細い脚は支えられる事を通して太くしてあげ全てが同じ太さ同じ長さになっていかねければならない。仕え合って主を待ち望むと兄弟姉妹との正しい関係が与えられ、義が与えられる。主は仕えられるためにではなく仕えられるために来られた事を覚えよう。初代教会において7人の執事が選ばれたが彼らが謙って人々に仕えていた所からステパノは最初の殉教者になった。ステパノの最後の説教は素晴らしかった。パウロに与えた影響は際立っていたであろう。ピリポも同じ執事の7人の一人であったが後に最初の伝道者となって出て来る。仕える事により偉大な働きをなす者と出世したのである。 


3:椅子・座 希望を象徴する。希望を持って主を待ち望む事である。詩編110編の「右の座」は新約で9回も引用されている。主ご自身でさえ贖いの業を成し遂げられて御父の右の座に着かれたと。キリスト信者が純化され聖められて、より優れた神の備えられた座につく希望をもって主を待ち望む事を教えている。神がなさる事をどんな酷い境遇にあっても希望を持って待つことにより聖められ純化されるのである。
 ダビデがアビメレクの前で狂ったさまをよそおい、追われて出ていったときの歌として詩編34編の題とされている。サウルに命を狙われ、逃げて行ったペリシテ人からは敵の大将のダビデだと知られ捕らえられないために狂人の振りをし追い出され最低最悪の状態で主を賛美した詩編である。そこには主にある希望に満ちている。


4:寝台 ベッドは今は誰でも使う家具になっている。あなたが心が悶々とする問題を抱えていても神に愚痴をこぼさず主に信頼して平安の中で眠ることができるなら大人の信者であると言える。しかし、神への不信や疑念が魂に溢れて眠られなくてもそのような不信仰の言葉を口に出さないと決めて苦闘しながらも黙すことをする人もいる。勝利者への一歩だ。私はバイクで転倒し肩を粉砕骨折した。救急車で病院に運ばれたがベッドがなく手術まで数日間家でそのままの状態で待った。少しでも肩が動くと痙攣し、少しも動けなかった。まさに口もきけず担架に乗せられている瀕死の状態だった。
 中風で床のまま主の前に吊りおろされた男は病から解放された(マタイ9章)。「人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。また、エルサレム付近の町からも、群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、一人残らずいやしてもらった」(使徒業伝5:15,16)。寝台は贖ないと解放の場所であることを現す。
シェネムの婦人も死んだ自分の子を寝台においていたがエリシャを通して生き返らてもらった。寝台にいると言う事は病気等で力のない状態、嫌がおうにも静かにしていなければならず口もきけない状態である。しかしそう言う状態こそ主語自身を待ち望むにふさわしい。
「お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」(イザヤ書30:15)。
 アブラハムの僕は、主が自分の旅を成功させてくださったかどうかを知ろうと、黙ってリベカを見つめていた(創世記24:21)。
 主は30年間静かに御父を待ち望まれたのである。
黙す反対は口を開くと言う事でぶつぶつ文句を言う事である。
 イスラエルはいつも主に口を開きつぶやきと不平を鳴らしていた。エジプトを分捕りようようと出て来たものの紅海の前でパロの戦車が迫ってきた時も「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか。」と不平を言った。モーセは「「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」と民に語った(出エジプト記14章)。イスラエルは黙った時に主の栄光を見た。静かに黙して主を待つ事である。


 


ミッション・あどない・いるえ
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