ブログ表紙

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ピーター藤・和子

2011年12月29日木曜日

幕屋の真理の補足ーモーセの幕屋の7つのものに重ねてヨハネの福音書の記者が見た主・キリストの絵

ヨハネの福音書では主・キリストご自身が、命のパン(6:35)であり、世の光(9:5)であり、門(10:9)であり、良い羊飼い(10:11)であり、甦りと命(11:25)であり、道・真理・命(14:6)であり、真の葡萄の木(15:1)であると「私は〜である」という言い方で7回語られている。



1:「わたしがいのちのパンです」と主が言われた(ヨハネ6:35)。モーセの幕屋の聖所の備えのパンを祭司達は食した。それは主の聖餐において神の祭司とされた者である我々がキリストご自身の御体を見える御体として食することを表す絵を見る事ができる。


2:「わたしは世の光です」(ヨハネ9:5)と言われた主は「あなたがたは世の光です」(マタイ5:14)とも言われた。これらの言葉は矛盾しない。何故なら主が我々を通して輝かれているからだ。この絵はモーセの幕屋の金の燭台を描いている。


3:主・キリストは「わたしは門である」と語られ(ヨハネ10:9)、ヘブル10:20には「彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができる」とある。聖所と至聖所を隔てた幕を主ご自身が破られ、主ご自身が門となられた事を表す絵である。



4:「わたしは良い羊飼いである」(ヨハネ10:11)と主は語られ、ヘブル13:20には「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエス」とある。我々羊の為に主ご自身が神に罰せられ、その血は大祭司に携えられ真の至聖所の贖いの蓋に注がれた。青銅の祭壇と至聖所の契約の箱を描いている。


5:「わたしはよみがえりであり、命である」(ヨハネ11:25)と主は語られた。

6:イエスは言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)。
7:「わたしはまことのぶどうの木」とキリストは言われた(ヨハネ15:1)。

ミッション・あどない・いるえ
代表伝道者 ピーター藤 正信
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2011年12月22日木曜日

3回目のクリスマスキャロリング

 12月19日、日曜日16時半から栃木駅北口ロータリーで3回目になる「キャロリングイン栃木」を開催しました。東京新聞と朝日新聞に事前に記事が載り、栃木ケーブルテレビも最後まで取材してくれました。時間前から女子高校生達が始まるのを待っていました。私どものあどない・いるえ・クリスチャンセンターではユースウイズアミッションのチーム7名を助っ人とし
て迎え、時間前に新生宣教団から頂いたトラクトを個別配布や通行する方々に差し上げてもらいました。


 栃木市の福音宣教協力会が主催でした。カソリック、聖公教会、
福音派の教会、それにカリスマペンテコステの教会5つが協力してのなかなか見れない合同のキャロリングを行いました。3度目になります。聖歌隊が10曲を歌い、間にハープの弾き語り、サックス演奏、オカリナグループの演奏、カトリック教会のラファエル司祭が神にある平和という内容のメッセージで映像にもきちんと撮られました。



 私は始発電車で東京にチームを迎えに行き、礼拝前に交わりしながら教会近くにキャロリングの前に配って頂くトラクトに判を押してもらい、礼拝後食事をしてから配りに行ってもらいキャロリングに合流してもらいました。私は家具店のトラックを借りて来て音響機器、照明機器、看板なをを詰め込み設置リハーサル、音響の確認、照明の確認をしてケーブルテレビの取材があって本番の司会、終わってからは機材の片付け後運搬、トラックを戻してカトリック教会での反省会兼ねた交わりに参加し、チームを食事に連れて行き、再び東京まで送って行きました。東京に着いたら23時だったのでそこに泊まりまた始発で栃木に帰って来ました。


 忙しかったですが充実した喜びの一日でした。写真はカトリック教会での反省懇親会時の写真です。


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平成の独裁4天王

 フセイン、ビンラディン、カダフィ、金正日の平成の独裁四天王が死んだとの呟きtwitterを見た。


 聖書は「たとい、悪しき者は草のようにもえいで、不義を行う者はことごとく栄えても、彼らはとこしえに滅びに定められているのです」(詩編92編7節)と語っている。


 人を創造された神を恐れず圧政を続けて止めないなら神が終止符を打たれるのである。「神を恐れその命令を守れ。これはすべての人の本分である。」とも聖書は教えている。


 神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである。(伝道者の書12章14節)。


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2011年12月17日土曜日

教会が通過すべき7つのテスト

黙示録に示されている7つの教会についてのメッセージを通して学ぶ


1:エペソの教会へのメッセージを通して
  服従のテストである。それをパスする為にはひたすら勝利者が神に徹底した従順が必要である。神は心を見られるので表面的な服従では満足されない。


2:スミルナの教会へのメッセージを通して
  この世からの分離のテストである。勝利者だけがこのテストをパスするのである。勝利者たちは酷い苦しみの時も純粋な信仰の証を守り、神を恐れない偽クリスチャン達の間で生活するも品格を落とす事は無かった。


3:ペルガモの教会へのメッセージを通して
  明け渡しの従順のテストである。このテストにパスしたものが勝利者になる。ヤコブ書4章7節は神に服従するだけが悪魔を追いやる事ができると述べている。これはサタンが住む所で生活している我々には非常に重要な原則である。殉教は全ての事について神に従順する事の別の表現である。


4:ティアテラの教会へのメッセージを通して
  整い・準備のテストである。この試みをパスしたものが勝利者と認められる。パウロは教会を整えて建て上げた。イゼベルが出現するのは聖徒たちが如何に姦淫から自分たちを守る事が整えているかを試みる為である。整えの期間が終わったら、神はご自身の真実の故に私達が建て上げる為に試みられる事を許される。


5:サルデスの教会へのメッセージを通して
  所有を明け渡すテストである。この試みも勝利者への道である。私達はローマの教会に教会の交わりから名前を削除される人々が出るような悪い事が起こっている傾向を見いだす。しかし、それはその除名される人々が内なる人が建て上げられて彼らの主が命の書に書かれる報いを得るためである。そうでなければこの地上で所有を主に明け渡したり主にある交わりは人々を欺くことになる。今日多くのクリスチャンは、神の神聖な秩序や真理よりも、多くの友人達の名前に囲まれた教会を自分のものとして選んでいる。


6:フィラデルフィアの教会へのメッセージを通して
  勝利者になる為に通過すべき3重の優先順位のテスト。
 ・安息のテストは、誰も閉じる事ができない扉が開かれているのを見る。
 ・我慢強い信仰のテストは忍耐して神に与えられた言葉を守るかというものである。
 ・恵みのテストは自分自身の力によるのでない謙遜が鍵である。神から受け取る全てのものの内で最も大きな報いがこのテストをパスした者に与えられる。


7:ラオデキアの教会へのメッセージを通して
  4重の信仰のテストは勝利者になる為の最後のテストである。ラオデキアの教会はこの”古風な信仰”を忘れてしまったのである。
 ・創造的な信仰のテスト ラオデキアの教会が混乱状態にあったという事を気づかせ(黙示録3:17)、神の創造の始めからいつまでも変わらない神の創造的な御言葉は金よりも尊いのである。
 ・御言葉の真理と教えに裏打ちされた信仰のテスト
 白い服がポイントである。御言葉の真理に裏打ちされた信仰に基づいた生活が私達の装いを聖めて染みも無い子羊の花嫁の衣装となる事を覚えるべきである。
 ・神を意識する信仰のテスト
 明らかに主の臨在が欠如しているご自分の教会の外に立ってノックされているキリストがおられる。神を意識する信仰は私達が主との親密な時間が必要な事を気づかせるよう助けるのである。丁度エマオの途上にあった二人の弟子が目の前でパンを割かれた時に主であると気づいたように。


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2011年12月13日火曜日

4種類の信仰

信仰には4種類ある。
 1)創造的な信仰
 2)御言葉の真理・教えに裏打ちされた信仰
 3)粘り強い信仰
 4)神を意識する信仰
である。

1)創造的な信仰とは「神はこんな石ころからでもアブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」と言ったバプテスマのヨハネや最も不利な状況や環境の中で想像力に富む神に働いて頂き豊かに生み出す神に信頼する生き方をいう。

2)御言葉の真理・教えに裏打ちされた信仰とは、パウロのように常に変わらない神の真理により建て上げられ偽りや敵の誘惑を明らかにする神に信頼する生き方である。

3)粘り強い信仰とは、無実の罪で投獄されても神を待つヨセフのように結実する生き方であり、敵に打ち勝つ助けとなる神の約束を告白しながらの辛抱強い働きをもたらす神の御言葉に信頼する生き方である。

4)神を意識する信仰とは、ライオンの穴に投げ込まれたダニエルや燃える炉に投げ込まれたシャデラク、メシャク、アベデネゴのように極限の苦悩や苦痛のある状況にもその苦痛よりも神を身近に感じ主の臨在を喜ぶ生き方である。
 以前妻と息子と長崎の殉教地巡りをした事がある。長崎の「国宝・大浦天主堂」と言えば、現存するわが国最古の教会として名高いのであるが1865年在留フランス人のために建てられたものである。正式には「日本二十六聖殉教者天主堂」と言い、二十六聖人殉教の地「西坂の丘」に向かって建てられているということは、意外に知られていない。日本国内のみならず、世界各国から巡礼者が訪れている。1597年(慶長元年)2月5日、西坂の丘で外人宣教師六名、日本人信者二十名が十字架で処刑された。この殉教者たちが日本二十六聖人と呼ばれている。この出来事は、キリスト教に対する弾圧の始まりに過ぎなかった。『日本二十六聖人殉教記』によれば、西坂の処刑場だけでも1599年から1671年までの間に、3792名の日本人殉教者がでた。その処刑の種類と人数は「斬首」2153名、「獄死」685名、「火刑」481名、「穴吊り」121名、「磔刑」60名、「溺没」24名、「水攻」22名、「寸断」20名、「地獄責めその他」226名という内訳だ。現在のところ分かっている日本の殉教者は名前が分からない人などを入れると26万人いると言われている。秀吉がキリシタン名簿を作った所30万人もいて仰天したそうである。何せ当時の日本の人口は2000万位だったのであるから。その西坂の刑場で殉教した26人で最年少だったのはルドビコ茨木という12歳の少年であった。父のパウロ・茨木と叔父のレオン・河津もともに西坂の丘で十字架にかけられた。この少年は修道院で宣教師に仕え、病人たちの世話に励んでいたのです宣教師たちが次々と引き立てられていくなか、ルドビコは宣教師を慕い、どんなに役人にたたかれても離れようとしなかった。根負けした役人は、ルドビコもいっしょに捕らえ、牢に押し込めた。捕らえられた者は、耳と鼻をそぎ落とされ(役人の情けで鼻はそがれなかったらしい)、そのみじめな姿を民衆にさらしながら都から長崎まで引きまわし、その長崎で磔刑にすることに定められた。長崎までの道中26人の多くは、裸足だったと伝えられている。寒風が吹きすさぶ冬のまっただ中、手を後ろに縛られ、粗末な衣をまとっての徒歩の旅は、現代の我々には想像もつかない。そのような辛い長旅にも、ルドビコはいつも快活さを失わなかったと言われる。いっしょに処刑されたブランコ宣教師が、道中、密かに友人にあてた手紙の中に、ルドビコの明るい姿に、同行の二十五人は何度も心を慰められ、力を与えられたと綴っている。ある日、若いルドビコを憐れんだ役人が、「信仰を捨てれば命を助けてやる」と言ったところ、「つかの間の命と永遠の命を取り替えるわけにはいきません」とはね返し、役人を驚かせた。長い旅も終わり、殉教の地、長崎へ到着し、西坂の丘に、二十六本の十字架が立てられその一本ごとに名前が記された。ルドビコは、自分の十字架が分からないで見渡してしていた。そして「あれがおまえの十字架だ」と役人が指差すやいなや、走りよってその十字架に抱きついた。二十六人の一人、ペテロ・バプチスタは、縄で十字架にくくりつけようとする役人に、「どうか私をキリストのように釘で打ちつけて下さい」と願ったが、許されなかった。パウロ・三木は、「人が救われるのはこの道しかありません」、「死刑を執行する人をうらみません」と、見物の群集に語りかけた。ルドビコは、賛美歌をうたい、黙祷をして最期を待っていた。執行人が槍を構えると、「天国! 天国!」と叫んで槍を受けた。この少年達が持っていたのがまさに神を意識する信仰である。


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2011年12月11日日曜日

2種類の祈り

 

「では、どうしたらよいのでしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう。」(1コリント14:15)。


祈りには2種類ある。知性あるいは理性の祈りと霊の祈りである。知性の祈りはサタン・悪霊も聞く事ができるので祈る人物に祈りを妨げたりその祈りに攻撃をされる可能性がある。ヨシュアはエリコの城壁の周りを回る民に「わたしが鬨の声をあげよと命じる日までは、叫んではならない。声を聞かれないようにせよ。口から言葉を発してはならない。あなたたちは、その後で鬨の声をあげるのだ」と命じた(ヨシュア記  6章 10節)。それは敵に戦い方を知られない為であった。

霊の祈りはサタン・悪霊に内容を知られずまた神と深く交わる事ができ「絶えず祈る」( 1テサロニケ5:17)事を実現でき素晴らしい「どんな時でも御霊によって祈り」(エペソ人への手紙 /6章 18節)。「わたしが異言で祈る場合、それはわたしの霊が祈っているのですが、理性は実を結びません。」(1コリント14:14)。かつてミンダナオの日系人フィリピン人牧師のタオ師が私共の教会に来た。いろいろ交わっている時に彼は「私は食事している時もどんな時も主と交わりをしている」と語った。これが霊により絶えず祈っている事である。異言の祈り、霊の祈りをもっとしていこうではないか。

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2011年12月8日木曜日

時代区分の真理 その1

神の栄光の恵みに神の主権と卓越性を与える真理である(エペソ1:6、ヘブル12:25〜28、13:8、使徒業伝3:21、黙示録1:19)。 

人の時代は族長時代、律法時代、恵みの時代(教会時代)、千年王国時代の4つに分けられる。族長時代はアダムからモーセの時期であり、律法時代はモーセからキリストの時期、教会時代はキリストの死から二度目の来臨まで、千年王国時代はキリストの二度目の来臨から白い御座の裁きの時までである。

全ての時代は神が治めておられる。族長時代では神の御名の栄光が現され、律法時代では神の言葉の栄光が現され、教会時代では神のいのちの栄光が現され、千年王国時代では神の臨在の栄光が現されるのである。

永遠の昔から神は大いなる予知をもって人類の時代を確固たる統治を意図された。各々の時代は神からの試される期間である。時代毎のいくつかの契約の下に民族を神は試される事を意図された。それらは全ての時代において7つの基本的な試みである。そして勝利を体験した人たちが勝利者になった。7つの基本的な試みは
1:神の言葉に従うかのテスト
2:この世からの分離のテスト
3:従順・服従のテスト
4:準備のテスト
5:所有のテスト
6:3重の優先順位の試み
a  安息のテスト
b ヴィジョンへの忠実さのテスト
c 恵みのテスト
7:4つの信仰のテスト
a 創造的な信仰のテスト
b 教えに基づいた信仰のテスト
c 粘り強い信仰のテスト
d  神を意識する信仰のテスト

である。これは勝利と成長の真理でも見てきたものである。
いずれの時代の終わりに多くの不信と堕落があるので裁きがある。

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2011年12月5日月曜日

マナセに見る人生回復のステップ

罪を犯し、失敗しあるいは主を裏切り、人ならぬ道に歩み、あるいは堕落した、神の子たち・神の僕・説教者・奉仕者・役員・長老・執事・レイマン・すべてのクリスチャン・主に愛されている全ての人に当てはまるメッセージである。

<マナセはどんな人物だったか>
アハズ王と並びユダの最悪の王であった。ユダ王国滅亡の原因は彼にあると列王記は明記する。「ユダを主の前から除くということは、実に主の命令によることであって、それは、マナセが犯した全ての罪のためであり、また、マナセが流した罪のない者の血のためであった。マナセはエルサレムを罪のない者の血で満たした。そのため主はその罪を赦そうとはされなかった」(2列王記24:3、4)。

<アハズの犯した罪>
1:主がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の忌み嫌うべき習わしをまねて
、主の目の前に悪を行った(2歴代誌33:2)。
2:父ヒゼキヤが取り壊した高き所を築き直し、バアルの為に祭壇を立て、アシュラ像を作  り、天の万象を拝み、これに仕えた。その偶像礼拝への傾斜は最も甚だしかった(2歴  代誌33:3)。
3:彼は主の宮の庭に、天の万象のために、祭壇を築き、自分が作った偶像の彫像を神の宮  に安置し、主の神殿を冒涜した(2歴代誌33:5、7)。
4:彼はベン・ヒノムの谷で、自分の子供達に火の中をくぐらせ、卜占をし、呪術を行い、  霊媒や口寄せをした(2歴代誌33:6)。
5:罪のない者の血でエルサレムを満たした(2列王記24:4)。
6:ユダとエルサレムの住民を惑わせて、主がイスラエル人の前で根絶やしにされた異邦人  よりも、さらに悪いことを行わせた(2歴代誌33:9)。
7:主はマナセとその民に語られたが、彼らは聞こうともしなかった(2歴代誌33:1   0)。

<マナセの人生回復のステップ>
1:苦しみに会う 
人々と敵の前にそして主なる神の前に低められ、卑しめられ、苦しめられる。「そこで主は、アッシリアの王の将軍たちに彼らを攻めさせられた。彼らはマナセを鉤で捕らえ、一対の青銅の足枷につないでバビロンに引いて行った」(2歴代誌33:11)。かつて賞賛や尊敬されていた人々の前で卑下され糞味噌に言われる事は辛い。敵である人々の前で罵声を浴びせられても何も言い返せない状況は悲惨であろう。しかし、父である神は子として見てくださるからこそ懲らしめ苦しみに会う事をあえて許されるのである(ヘブル12:7.10)。苦しみこそ真の人生回復への神がくださる祝福の第一歩である(詩編119:67、71)。


2:神の前にへりくだる
  マナセは主の前に大いに身を低くしへりくだった(2歴代誌33:12)。
主は高ぶる者には敵対し、主の前にへりくだる者に恵みを与えられる(ヤコブ4:6、1ペテロ5:5)。
人は言動で判断するが、主は魂をご覧になるから主の目に真剣にへりくだる事が重要である(1サムエル記16:7)。
アハブ王はマナセに比する横綱級の悪王であったが、主の言葉を聞くとすぐ、自分の外套を裂き、身に荒布を着て付し、また、打ちしおれて歩き、主の前にへりくだったので、彼の生きている間は災いを下さないと主に裁きの計画を変えていただいた(1列王記21:27、29)。
高慢は破滅に先立つが謙遜は栄誉に先立つ事を覚えよう(箴言18:12)。
主は心砕かれて、へりくだった人とともに住まわれ、へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かされるのである(イザヤ書57:15)。


3:神に祈り求め、切に嘆願する(2歴代誌33:13)。
 聖書の中の嘆願には他人の為の嘆願、と自分の為の嘆願がある。
 前者は
 モーセがイスラエル人の為にした嘆願(出エジプト記32:11)
 エステルがユダヤ人のためにした嘆願(エステル記8:3)
 を挙げる事ができるが、いずれも主に聞かれている。それは取りなしでもある。
後者は
 サウルがサムエルがくる前にしてしまった嘆願(1サムエル記13:2)
 マナセの悔い改めの嘆願(2歴代誌33:12)
がある。
 傷害罪に問われた場合、被害者が加害者の「・・・の行為を許す」と書いた嘆願書を提出すると執行猶予の可能性がきわめて大になる。減刑嘆願書は裁判所や検察庁に対して「実は・・・というエピソードがあり、本当は心の優しい人だから刑を軽くしてあげてください」とか「罪を犯した事を反省して今は・・・ように生活しているから刑を軽くしてあげてください」、「被害者の私は被告にこういう事をされたが、被告の当時の状況は理解できなくもない。また、被告はその後相当反省している。賠償金も受け取った。だからこれ以上被告に重い罰を科さないで欲しい」、あるいは、「その人の平素の人柄や社会的貢献度等を記載し、「普段はとても周囲から信頼を得ているにも関わらず魔がさしてしまってそういう罪を犯してしまった。本人も反省しているし周囲の友人達もそう願っているので、どうか刑を軽くしてくださるように、署名を添えて提出いたします」と書き、この趣旨に賛同する人たちが住所氏名を書くものであるが、嘆願書が出されても減刑になる場合もならない場合もある。
 マナセの嘆願は他人の為のではなく自分の為のもので通常は聞かれないもの、単なる命乞いであった。でも主はそれに応え聞き入れてくださった。朝でも昼でも夜でも嘆き呻く声を主は聞いてくださるのである(詩編55:17)。あなたの心を主の前に注ぎ出せ(1サムエル記1:15)。


4:主こそまことの神であることを知る(2歴代誌33:13)。エルサレムのユダ王国に戻された事を通して。
 イスラエル人は天から火が降りいけにえ等を焼き尽くしたのを見て「主こそ神」と知った(1列王記18:39)。
人々は偉大な主の栄光と御業を見て体験する事により主こそ真の神と知る。主を神としない事は罪である。天皇・自分・富・思想・自然・偉人・先祖などなど。
あなたはわたしの他になにものをも神としてはならない(出エジプト記20:3)。


5:主に悔い改めの実を見せる
 心から主以外の神々と偶像と、生活の場所から主が嫌われた祭壇を取り除き投げ捨てた(2歴代誌33:15)。悔い改めにふさわしい実を結ぶようバプテスマのヨハネは説いた(マタイ3:8、ルカ3:8)。


6:主の定められた方法で神に近づく
  祭壇を築き、和解の生け贄と感謝の生け贄(感謝・告白・賛美・感謝の歌・感謝の捧げもの)を捧げる。
 良い事であっても定められていない方法で行うと神の怒りを招く事がある。ダビデは神の箱をエルサレムに運び上ろうとした時、牛車に載せレビ人でない者にその車を御させた。その結果牛が神の箱をひっくり返しそうになり、ウザはそれを押さえたので死んだ。二度目はレビ人が神の箱を担いで主が定められた方法で運んだ時主は祝福された(2サムエル記6:1〜19)。


7:主に使え、奉仕し、主の仕事をする
  なくなる食物の為にではなく、いつまでも保ち、永遠の命に至る食物のために働く(ヨハネ6:27)。
 キリストは、あなたの神である主を拝み主にだけ仕えよと言われた(マタイ4:10)。
パウロは、勤勉で怠らず霊に燃え主に仕えよと言った(ローマ12:11)。


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2011年12月3日土曜日

永遠の救いの真理 その3 霊と魂の区別

黙示録9:11には「いなごは、底なしの淵の使いを王としていただいている。その名は、ヘブライ語でアバドンといい、ギリシア語の名はアポリオンという」とあるがその意味はサタンの名前の一つで破壊である。


 サタンは神が造られたものを破壊する。エデンの園で神がご自身の形に創造された人の神の形と姿を破壊した。人の中に死と滅びが入り、霊・魂・体は一体だったが破壊され別々の運命を持つ存在となった。生きているときは一体性を持っている。霊と魂の隔ての幕が下りていないかが信者と不信者の違いである。信者は生きているときから霊と魂はキリストにおいて一体になれる。アダムは善悪を知る木の実を食べたその時に死ぬと言われた。霊的に神との関係においてであった。そして900年後にアダムの体は死んだ。ノアの洪水の後には120年の齢とされた。体は80年、120年で死ぬが、魂は永遠に天国か地獄で存在し続けるのだ。霊は不滅である「だれが知るか、人の子らの霊は上にのぼり、獣の霊は地にくだるかを」(伝道者の書3:21)、「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る」(伝道者の書12:7)、「主は言われた。『わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。』こうして、人の一生は百二十年となった」(創世記6:3)人は死ぬまではその霊は生きていると言われるが霊が取り去られると死ぬ(ヨブ記34:14,15)。体に命を与えているのが霊である。しかし、不信者は霊的に死んでいる。聖所と至聖所に隔ての幕があったように隔ての壁がある。神が占有を予約されている部屋が霊である。人は何をしても空しいと言うことはその証拠である。




 霊魂という表現があるが、聖書は明確に霊と魂を分けている。霊が滅びるという記述はない。「しかし神はわたしの魂を滅亡から救い出された。わたしは命を得て光を仰ぐ」(ヨブ記33:28)、イザヤ書  38章 17節も魂の滅びについて述べている。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10:28)は体と魂が滅びるのである事を語っている(不信者の場合)。


 肉体に5感(嗅覚、視覚、触覚、味覚、聴覚)があるように、魂にも5感がある。それは記憶、良心、想像力、理性、愛情である。不信者はそれらの5感を持ったまま黄泉に行くのである。しかし神にある新しい魂を持って霊と共に天国に行くのがキリスト信者である。魂も土から創られた。鼻から息を吹き込まれたのは人だけである。魂は体に属する存在である。


 天のパラダイスは「耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう」(黙示録2:7)楽園と呼ばれている。最初の楽園はエデンの園であり地上にあったが、罪を犯した後では死後の世界(黄泉)に移り、大きさは半分になり、キリストの贖いが完成した後は天に移ったのである。パラダイスには義人達もいたが不従順な者もいた。天国が報いによって階級があるように黄泉のパラダイスにもその生き方に応じての階級があったと考えられる。


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2011年12月1日木曜日

ロバート・ユーインはどんな人物だったか。

 ロバートユーインは1924年2月4日にテキサス州ウエィコで生まれた。
彼は5歳で信仰告白し、8歳で聖霊に満たされた。
どもりであった彼は幼児期から青年期までのいたる時期に卑しめられる体験をしたが、1946年22歳の時に瞬時に癒され、神の務めに召されたのである。

  多年に渡る地方教会での奉仕の後、
神はロバートを使徒職の務めに召された。
彼は世界中に多くの新しい働きを起こした。その中にはベルリンの壁崩壊前の共産圏諸国での働きが含まれている。彼は世界を駆け巡りイエス・キリストの僕として奉仕を続けた。
  グレンユーインと彼の息子ロバートは"テキサスグレイスカウンセラー"という新聞を発刊し、その中で教会に対する神の神聖な定めについての教えを連載した。ロバートは1966年には、"キャンパスフェローシップ"という学生を献身に導くための雑誌の刊行を始めた。ゴスペルソング「大いなる主」の作曲者でもある。

 彼の宣教活動は目覚ましく、共産圏にも根を張っていた。かつてのルーマニアの300以上の地下教会が彼のミッションの流れの中にあり、ブルガリアの5000人と言われる地下の福音的クリスチャンの殆どが彼のミッションの影響下にあった。旧ソ連、ハンガリー、東ドイツにも宣教の扉を開いた。共産圏以外では、スイス、オーストリア、イスラエルに独自の宣教を行い、教会形成の働きをして来た。アフリカのケニアではマウマウ族の長老である。村長を始め6家族を救いに導き白人で始めての地位に就いた。中南米ではグアテマラ最大の教会、メキシコ最大の教会を指導してきた。
 ロバートの伝道方法は、その時その場で主が示された方法を行うというもので、常に不思議なしるしと奇跡が伴っている。また、伝道し弟子化していくのみに留まらず、地方教会の形成を指導し、なおかつその成長を監督していくというものである。

  ニューヨークのツインタワーが攻撃された翌日の2001年9月12日、ロバートは主の臨在の中に召された。私達の教会にもロバートは何回も来てくれた。
その謙虚な仕える姿こそ真の使徒職と確信した。
彼が主にあって分かち合ってくれた教えは深く多いが少しずつ自分のものとし、更に神の子供たちに分けていきたいものである。彼の生き方と共に。


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ロバート・ユーイン恵みの雨インタビューに答える(1988/11)

Q:日本と日本のクリスチャンをどのように見ているか
ロバート:日本は日の昇る国である。神は、アジア、全世界に向けて神の光を豊かな栄光の内に表して行く為に日本を用いられる。
Q:世界の教会の人々はどのように日本のクリスチャンを見てるか。
ロバート:世界の教会の人々は日本に起こされた働き人について感謝している。日本のクリスチャンが直面している困難については詳しく知らないが、その困難の中でキリストの証をしていることを嬉しく思っている。世界中の教会は日本に注目し、日本で今後起こってくる神の御業に期待している。
Q:これから日本の教会はどのようになって行くか。
ロバート:日本に真の意味でのキリスト教が急速に発展して行く鍵は、日本人が神の栄光を見るようになれるかどうかである。教会は神の栄光の入れ物である。「教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が代々限りなくありますように、アーメン。」(エペソ3:21)。
Q:真の教会はどのように立てられるか。
ロバート:教会の回復の原則は、イスラエルの70年間の捕囚の後にイスラエルになされたことが、今日の教会を回復するためのパターンとなる。「これらのことが彼らに起こったのは、戒めの為であり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです」(1コリント10:11)。マルチン・ルターもその著書でこのことを比較している。イスラエルが70年の捕囚から解放されて行ったように教会もこの暗闇の時代から解放されて行くとルターは言っている。


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2011年11月30日水曜日

永遠の救いの真理 その2 大祭司が贖いの日に果たした役割

大祭司は先ず生け贄をほふり、その血を祭壇の内側に持って入り贖いの蓋に振りかける為に至聖所に入った。キリストの霊は息途絶えた瞬間にご自分の血を持って天の至聖所に携えられて全ての民の贖いを関係されたのである「キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう」(ヘブル9:14)。これはレビ記16章15〜19節の預言の実現である。

大祭司としての主の2番目の務めはご自分の魂を我々の全ての罪と咎、永遠の裁きを負わせてハデスに追いやられたことであった。キリストの霊が大祭司として葬られていた3日間、黄泉のパラダイス(ルカ23:43)に行きそこにいた御名を呼び求めて死んだ魂を神の身元に導かれたのである「その霊においてキリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。昔ノアの時代に、箱船が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、、従わなかった霊たちのことです(1ペテロ3:18〜20)。
民数記35:25〜28には「共同体は、人を殺してしまった者を血の復讐をする者の手から救い出し、共同体が、彼の逃げ込んだ逃れの町に彼を帰さなければならない。彼は聖なる油を注がれた大祭司が死ぬまで、そこにとどまらねばならない。大祭司が死んだ後はじめて、人を殺した者は自分の所有地に帰ることができる」とされ、逃れの町について述べている。黄泉のパラダイスにいた魂は逃れの町に逃げた人々のようであった。罪人だが神を仰いだ人たちであった。その逃れの町から出ることができるのは大祭司が死んだときであった。その罪の贖いが完成したということを3日間伝えに黄泉のパラダイスに行かれたのであった。主が低いところ(黄泉のパラダイス)に下られ、そこにいた人々があたかも捕虜のように天に携え上げられて行った「「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、/人々に賜物を分け与えられた」と言われています。「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか」(エペソ4:8〜9)。黄泉のパラダイス(慰めの場所・楽園)は大祭司の死を待つ所であったが最早誰もいなくなったのである。もう誰も黄泉のパラダイスに行く必要はない。福音を聞いて救われなかったが神の御名を呼んだ人々の魂(ノアの時代の人々のように悔い改めの実を結ぶことはなくても)が皆黄泉のパラダイスにいた。「主の御名を呼び求める者はすべて救われる」という御言葉の通り主は哀れみ深いお方である。キリストの霊がハデスで死を味わっているキリストの魂を救う為に駆けつけそれが一つになり、やがて死と黄泉の軍勢に襲いかかって滅ぼし(詩編18)、死と黄泉の鍵を奪い取られその力を打ち破られた「わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている」(黙示録1:17、18)。


 「ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです」(ヘブル11:39、40)。エノクやエリヤも空中に挙げられたが、キリストの贖いが完成していなかったので天に行くことはできなかった。旧約の聖徒は誰一人天に昇った者はいない。天は真の至聖所であるからそこに道が開かれない限り誰もそこに行くことはできなかったのである。エリヤやエノクが挙げられたのは掲挙の雛形であった。そしてその聖徒達全ては黄泉のパラダイスに行ったのである(マタイ11:9〜12)。これは信仰義認のことを言っているのである。エノクは死を通らないで黄泉のパラダイスに移されたということである。1コリント3:10、11の「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません」は土台は神の恵みにより与えられるが、建物は魂のレベルで自分で決めることである。その評価はやがてなされる。


 「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。土地は、度々その上に降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ農作物をもたらすなら、神の祝福を受けます。しかし、茨やあざみを生えさせると、役に立たなくなり、やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます」(ヘブル6:4〜8)は成長や聖化がテーマとされているのであって救いについて述べられているのではない。雑草が焼かれるのであって土地まで失うのではない。神の御心に従って有用でない者、実を結ぶことがないなら報いを失うと言うことである。「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです」(1ペテロ2:9)によれば天国には王達もいるし(黙示録22:5)、ただの市民もいる。キリストの花嫁となる人もいる。天のあるエルサレムに主に会いに来る者もいる。


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永遠の救いの真理 その1

米国のある教団の総裁が「あなたが一度救われたなら、あなたは救われている」という教理は偽りであり、悪魔からのものだ」と言って、イスカリオテのユダが滅んだ例を掲げて、救いは個人の信仰によって保たれ守られなければならないものであると語っている。

人は神の形のように三位一体を持つ存在として創造された。悪魔は最初の人アダムが罪を犯した事によりこの統一的一体生を壊したのである。キリストを信じなかった人の魂は黄泉に落ちて行くが神に与えられた霊・神の息(ヘブル語で息も霊もルーアッハ)は神の元に帰るのである(伝道者の書3:21)。贖われた魂は黄泉に行かない「神は私の魂を贖って黄泉の穴に下らせず、私のいのちは光を見る」(ヨブ記33:28)。不信者の魂と体はゲヘナ(地獄)に行くが霊は行かない「魂も体も、共にゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10:28)。

神は魂中心の生き方でなく、霊中心の生き方を最初の人に与えられた。魂中心の生き方をすると勝利を得られなくなるからである。感情や思索が例えどうであっても神の語りかけに従うというのが霊中心の生き方である。

レビ記16章1〜22節では大祭司と2頭の山羊(アザゼルを含む)が贖いの為に必要であった。罪を犯した事により死と滅びという破壊された人間性をこの3者はキリストの霊・魂・体を予表している。山羊の1頭は罪の為の生け贄である。贖いのために殺され血が流される。キリストの体を象徴している。この血が真の至聖所に携えられていった。全人類の贖いとなられたのである。
アザゼルの山羊は、全ての罪咎を置かれ一人寂しく荒れ野に追いやられる。これはキリストの魂を予表している。キリストは生きたまますべての人の全ての時代の罪とその結果の咎と呪いを負われたのである。アザゼルの山羊はオリブ山と死海との間のヨルダンの荒れ野に追いやられ、あるいは暗い谷底に突き落とされて孤独の死を遂げるのであった。アザゼルが生きたまま不毛の地に追いやられるのは神の民から罪が離れた場所に遠ざけられる事を示す(詩編103:12)。「我が父」と呼ばれていた御子が御父からも見放され、そのキリストの魂が全ての罪を持ち去ってハデスに行かれ、そこで神の怒りと裁きを受け(詩編88)られたのである。

教会は黄泉・ハデスの苦しみの中で身ごもられ産まれたのだ(詩編139:15、16)。キリストがハデスに行かれ、裁かれ、呪われたからには私達が地獄に行き、裁かれ、呪われる事はあり得ないのである。


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2011年11月26日土曜日

キリストにある統治と支配の真理

キリスト信者はキリストと共に7つの世界(1悪霊の世界、2自我の世界、3動物の世界、4科学の世界、5病気の世界、6空中と宇宙の世界、7天使の世界)を統治ないし支配する事を聖書は語っている(ローマ5:17、創世記1:26、ルカ10:19、ヘブル11:33〜35)。 

私達をキリストにある7つの世界の支配へと引き寄せるのは1キリストの血(黙示録12:11)、2真理(ローマ16:25)、3御霊(使徒業伝1:8)、4愛(ローマ12:20)、5委ねた意思(ヤコブ4:7)、6神の名(使徒業伝3:16)、7賛美(使徒業伝16:25、26)である。

神に贖い出され、安息の中で成長し、カルバリの主の苦しみから恵みと祝福を受けると神の御心の力を与えられる。それがキリストと共に7つの世界を統治する支配の真理である。勝利者となったものがそれを支配する事ができるのである。

悪霊の世界:「信じる人々には・・・悪霊を追い出し」(マルコ16:17)、悪霊を追い出す事を主は命じられた(マタイ10:8)。弟子達に悪霊を追い出す権威を与えられ(マルコ3:15)、パウロの手ぬぐいを当てるだけで悪霊は出て行った(使徒業伝19:12)。

自我の世界の支配:神はカインに対して「
もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」(創世記4:7)と言われ怒りを支配すべき事を教えている。また「新しい言葉を語り」と知性基づく言葉とそうでない霊の言葉を支配する事、「舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています」と自己中心的な言葉が支配されるべき事を語っている。これは罪の世界を支配する事に繋がるといえよう。

動物の世界の支配:「信じる人々は・・・蛇をも掴み」とある。パウロも柴の中から出て来て彼の手に噛み付いた毒蛇に何の害も受けなかった。インドネシアのリバイバルの時河を渡っている宣教者に近づいて来たワニを主イエスの御名で去るように命じるとワニは彼から離れて行ったのである。

科学の世界の支配:「毒を飲んでも決して害を受けず」(
マルコ16:18)とあるが宣教師が毒を飲まされても死なないのでキリストを信じた証もある。


病気の世界の支配:「病人に手を置けば病人は癒されます」(マルコ16:18)。パウロが「身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ」た。今日ミニストリーで顕著な癒しが世界中の教役者が行っていると言っても過言ではない。

空中と宇宙の世界の支配:「そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた」(ルカ24:51)、「主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれた」(マルコ16:19)とあるのは創造主である主がまさに宇宙を支配されている事、その主と共に宇宙も支配する者とされているのである。

天使の世界の支配:「キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を携えて、神の右の座におられます」(1ペテロ3:22)、「私達は御使いをもさばくべき者だ、ということを、知らないのですか。それならこの世のことは、言うまでもないではありませんか」(1コリント6:3)。


7つにこだわり過ぎる感があるかと思いますが分かり易くする為と考えていただきたい。死の世界の支配もあるがそれは病気の世界と関わっていると思う。


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2011年11月22日火曜日

1億円の盆栽が売れた

 1億円の盆栽を福島の愛好家が買った。高松市で開催中の「アジア太平洋盆栽水石大会」で売れた。


 推定樹齢は300年で、高さは105センチ。うねる太い幹と繊細な枝ぶりを兼ね備えた「理想の盆栽」とのことである。盆栽は最近、海外で人気を呼び、この業者の顧客にも外国人が多いそうだ。


 永遠の救いと命はキリストを信じるだけで受け取れる。しかし、対価は想像を絶する。神の御子の命の値が付けられ、そして御父が買ってくださった。昔から中国などで不老不死の永遠の命を求めて王達がその財力を注ぎ込んで求め続けたが誰も得るには至らなかった。神が人の齢を定められた事は誰にも変える事はできない。また人は一度死ぬ事と死後に神の裁きを受ける事が定まっているからである。御子の十字架の贖いこそ永遠の命と救いを得る道である。


 キリストを信じ神の皇太子になる莫大な特権を不要と言う人の多い事は悲しい限りである。




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2011年11月21日月曜日

ミルクの真理と成長した大人の真理、初代教会の教えと使徒職について

あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにも
かかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良
い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。
ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行ないからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。」

上はヘブル人への手紙5章12節から6章2節までで、
大人のキリスト信者へ魂の糧があると同時に赤子のキリスト信者への魂の糧がある事を教えている。固い食物に対して乳、初歩の教えに対する義の教えである。赤子は魚のあら煮を美味しく食べられないが、小骨まで取り除くならその身を食べられる。

「キリストについての初歩の教えをあとにして、
成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行ないからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的な」事柄とするのがキリスト信者の赤子が食べられる魂の糧である。

これらの7つの初歩の教え(ミルクの真理)は大人の義の教え(
7つの鍵の真理)に対応するもの密接な関係を持つ教えである。1:キリストについての初歩の教えは幕屋の真理(主が住まいについての真理)に、2:死んだ行いからの改心(悔い改めの教え)は平安と安息の真理に対応している。3:神に対する信仰は成長と勝利の真理に続いていき、4:清めの洗いについての教えはカルバリの真理に対応し、5手を置く儀式についての教えは支配の真理に対応し、6:死者の復活の教えは全存在の永遠の救いの真理と関係し、7:永遠の裁きの教えは時代区分の真理に関係づけられる。

1キリストについての初歩の教え:キリストはメシア・
救い主であり主を受け入れると永遠の救いを受け神の民となる。キリストの御体・キリスト教会の部分となる教えである。福音書や使徒業伝に多く記されている。これに対し成熟した者には神の御住まい(私達自身)についての神の定めを学ぶのである。

2死んだ行ないからの回心:悔い改めについて教える。ヨハネ6:
26-29で罪は神との関係を妨げ平安(義と平和と聖霊の喜び)を奪うものである事を、悔改めは個別の神の働き(神の支配)を妨げを取り除く事(悔い改めの実を結ぶこと)を学ぶのである。

しかし悔い改めだけでは大人にはなれない。
常に主の臨在と安息の中に留り続けること(住み続けること)が必要である。その為には大人の真理である安息の真理(神の御心の中にいるという証拠を示すもの)の習得が必要になる。

3神に対する信仰:第一ヨハネ5:
4は信仰は世に勝つ勝利であると教えている。神への信仰は勝利をもたらすが、時々たまに勝利をするのではなく成長して大人になり勝利者であり続けるようになるための成長の真理が必要となるのである。

救われ、
ただ永遠の命を与えられただけではなくもっと豊かな神の富・祝福の中に進ましめそれを持ち続ける教えが成長・勝利の真理である。そして敵の攻撃からの防衛にもなるものである。

4きよめの洗いについての教え:
3つののバプテスマについて教える。霊・魂・体についてのバプテスマである。水のバプテスマは体に一回(教団によっては滴礼で水が足らなかったから全身礼を受けるように求められる事もある)、魂には聖霊のバプテスマを受け続ける必要がある。祭司が聖所で毎日燭台に油を注ぎ灯火をともし、香を焚き続けたように私達の魂は聖霊の油注ぎ・バプテスマを受け続けていく必要がある。キリストの御体に属するバプテスマは霊に受けるもので生涯に一度受けるものである。キリストを心に信じ受け入れ、口で自分の罪と裁きからの救い主贖い主と告白する(ローマ10:9、10)時受けるバプテスマである。例えどの教会に属する事ができなくても命の書に名が記された時に受けるものである。

3つのバプテスマの個々の教えは初歩の教え・
ミルクの真理であるが、その有機的教えは成長した大人の教えである。またバプテスマは死と復活を表すので自分に死に神の力に生きる事は成熟しないと習得できない。そこでカルバリの真理が必要になる。

5手を置く儀式:按手は大祭司が任職したり、長老の任職等権威・
力の付与を表す。神の御旨は神の子たちが皆権威を受けキリストと共に支配者になる事だが、先ず自分の魂を治めねば他を治めることができない。支配は内側から周囲へと拡大していくもの。ダビデはユダから全地の王となるのは時間が要った。

子供の頃は自らの魂を治める事もままならないであろう。しかし、
成長し成熟するとキリストと共に7つの世界を支配するものとなるのである。それがキリストにある統治・支配の真理である。

6死者の復活:キリストのの復活により永遠に完全な三重の霊・
魂・体の救いがもたらされるのである。キリスト者の復活は一回ではない。霊の復活は主を信じた時、魂は毎日キリストの復活に預かりつつあり、体は将来の栄化の時である。個別の教えはミルクの真理であるが霊・魂・体について区分し、有機的総合的に見ていくのが大人の教えである真理で三重の目的を与えるものである。

7とこしえのさばき:大人の為の真理は時代区分の真理である。
永遠の裁きについては死後の裁きだけではなく各々の時代に神は裁きをなしてこられたが、それを学び備えるためのものである。4つの時代(族長・律法教会・千年王国)の各時代での各裁きを通していかに信仰者として生きるかを考えさすもの。

4つの時代(族長・律法・教会・千年王国)への神の裁き:
族長時代への裁きはノアの洪水、律法時代への神の裁きはアッシリアとバビロンとローマによる滅亡、教会時代への裁きは7年の艱難、千年王国への裁きはサタンと手下どもと全人類の裁きで子羊の命の書とそれぞれの行いに応じての裁きである。

初代教会にあった使徒達の教え:「
彼のことばを受け入れた者はバプテスマを受けた。その日三千人ほどが弟子に加えられた。彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。信者達は皆一緒にいて一切の物を共有にしていた。資産や持物を売っては各々の必要に応じて皆に分配していた。毎日心を一つにし宮に集まり家でパンを裂き喜びと真心をもって食事を共にし神を賛美しすべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」(使徒2:41~47)

初代教会に学ぼうとこれらの聖句が開かれ、説かれ、
学ばれてきたが、殆ど取り上げられなかった、光が当てられなかったのが「使徒たちの教え」である。しかも初代教会の当初に出てくる大切な部分である。「使徒たちの教え」が7つの鍵の真理である。

使徒職について:今日使徒と名乗っている教役者がいるがそれは「
使徒たちの教え」を持っているかによって試されなければならない。試された後に分かることは彼は使徒ではないということだ。牧師であったり伝道者である。

使徒は主によって遣わされる者であり(マルコ6:7、ルカ11:
49、使徒8:14、13:3)多くの不思議な業とあかしの奇蹟を行ない(使徒2:43、5:12、第二コリント12:12)、教会の土台を据える者である(エペソ2:20)。

パウロはいわゆる十二使徒ではないが、
聖書は明確に使徒であることを言明する(エ ペソ1:1他)、また彼が異邦人への使徒である(ガラテヤ2:8)。

使徒職は父なる神により与えられるものである「
使徒となったパウロー私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです」(ガラテヤ1:1)。

ある大教会の牧師は有名な預言の務めをする人から「
貴方は使徒的な働きをするようになる」と言われたことを引用し自分は使徒であるかのようなことを言っても、彼に使徒の教えがなければ偽物である。世界一の教会の牧師でも同じである。管理の賜物や信仰の賜物が発揮されているだけと言える場合もある

イスラエル民族に見る7つの真理:
創世記はすべての真理の苗床で、出エジプト記はイスラエルの救いを、出エジプト記・レビ記は幕屋の真理を、民数記・申命記は安息の真理、ヨシュア記は成長と勝利の真理を、士師記・ルツ記はカルバリの真理、第一サムエル~第二歴代は支配の真理を教えている。詩歌は全人的な永遠の救いの真理を、預言書は時代区分の真理を多く教えている。7つの鍵の真理を要約すると勝利の真理は守りを与え、カルバリの真理は平安を与え、支配の真理は神の御心の力を与え、霊・魂・体の区分の真理は三重の目的を与え、時代区分の真理は神の卓越性を我々に与え示すものである。

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